アヒルを背負った少年

考えてみると、今年のFILMeXのコンペ部門には「アヒルを背負った少年」のイン・リャン監督(77年生まれ28歳)と「サグァ」のカン・イグァン監督の2人、初監督作品がピックアップされているのでした。ここで単純に驚かれるのは、その2作がともに(まだ荒削りではあるのですけれど)非常に力のある作品だと言うことです。国際的な評価の定まっていない作家を、しかもデビュー作においてピックアップし、評価していく。そういう姿勢は、他方で、高度な選択眼が無ければ成り立ちません。そして実際に、私のように、FILMeXという映画祭に信頼を寄せて、未知の監督だろうがとりあえず見に行く観客を、まったく裏切らないのでした。

正直言うと「アヒルを背負った少年」は、ビデオ撮影であることもあり、映画の前半はまったく乗れなかったのです。それが、後半どんどんと引き込まれていく。田舎の村から、行方不明の父親を捜して、アヒル2羽を背負い都会にやってくる。送られてきた小切手に記載されていた住所を元に、探し出そうとするのですけれど、目的地が見つからない、見つかっても建物が壊されている、そのうえどうやら父親は破産して引っ越しているらしい…と、なかなか見つけられないなかで示す、少年の強情さが、まずポイントなのだと思います。

以下、ネタばれです。

都会で、ある種の手応えのなさの中、少年の年齢で考えて6年前に家族を捨てた父親への情は、思慕だけではない、そこで見せる強い感情は、やがて、ともに父親を捜してくれる警官に、一緒に帰らないなら父親を殺す、という宣言をさせるのでした。言い換えると、失われた父、秩序、庇護者、と言い換えてもいいかもしれませんが、を許さず、探し、場合によっては滅ぼすこともいとわない、子の逆襲の物語なのです。

といっても、では父親が、絶対的な存在かというと、むしろ父親は、ごく普通の、しかし普通であるが故に都会に染まり田舎の家族を捨ててしまった、どこかぱっとしない人物であるともわかってきます。凡庸であろうが無かろうが、少年は殺すことが出来るのか。映画の途中で、彼が別に作った家族(そこには娘がいて、少年から見れば腹違いの妹)を見出しもします。つまり、今やよその家の父親、でもある。また、父親は分裂もします。バスの中で出会ったやくざに、強い父親像を見、また彼を世話する警官にもやはり父親像を見出し、見出したからこそそのほんとうの家族の出現を前にして、すごすごと去って行かざるを得ないのでした。

しかし、結局は、彼を見ても思い出しさえしないほんとうの父親を、少年は殺すのでした。やくざは、少年の目の前で逮捕され、警官は殺人者になったことによって、少年が自ら裏切る形になったのでした。中上健次を思い出します。父親を殺すシーンの緊迫感は(ロングショットで、父親と息子が小屋に入っていったあと、その遠景のまま何事もなく時が過ぎるその不吉な時間)、映画の後半の流れを支配する、目の前に迫った街のかなりの部分を呑み込む洪水の予感が大きく機能しています。

そこでは、流されて、再び現れる、この地表において、どう生きるか(流されないで)ということでもある。ただ、それは書くのはたやすいけれど、少年が、暴走族に囲まれて地面にうずくまり動かなかったりする、その奇妙な強さ、流されないために必要な強さ/頑固さが、その不器用だがしなやかで、よく走る身体のなかで示されなければ、少しも伝わるものではなかったろうと思います。納得させる演出力において、この監督は買いなのだと思うのでした。