焼けた劇場の芸術家たち / MOONDOG

MOONDOGをBGMにすること。1956年のNYでの録音です。オリエンタリズム、というにしては、どこかすかすかな、単なる素材となったアメリカ外部の音が、反復され、リズムを構築する。素材化しうる、つまり、その知性の働きにおいて、MOONDOGの音楽は、オリエンタリズムから離れ、とはいえ、安易に翻訳もしないことにおいて、取り込めない異物であろうともしているかのように思えます。そして、禁欲的な短さで終わる。それ以上やってしまっては、ミニマルな音の反復が生み出す快感のなかで失われるものがあるのかもしれません。反復における快感を生み出すための「長さ」は、聴き手の音楽体験にだいぶ左右されてしまう気もしますけれど。

切断が必要なのかもしれません。終わる事への自覚、というか。それもまた、知性の問題かもしれません。

Moondog

Moondog

カンボジア映画作家リティ・パニュの作品を、FILMeXではじめてみました。「焼けた劇場の芸術家たち」。製作国としてはフランスとクレジットされています。リティ・パニュが、山形ドキュメンタリー映画祭に出品された「S21:クメール・ルージュの虐殺者たち」などの作品で高く評価されていることは知っていたのですが、これまで取りこぼしてきてしまい、本作を見て、反省しきりです。ドキュメンタリーとフィクションの融合、などといっても、その言葉だけだと別段新しさはないのですが、そこにクメール・ルージュの傷跡が深く刻まれた、半壊した劇場と、それを守る劇団員たち、という被写体、そしてカンボジア復興の進行形の風景(半壊した劇場の後ろで、カジノとなる近代的な建物が建築中)が加わると、それは20世紀から21世紀へと続く映画という文化・記録媒体の対象として、非常にユニークでエッジーな、可能性を帯びていきます。そうした対象へと向かっていくことは、監督の、カンボジア人としての必然でもあったのかもしれませんが、そこに映画を見出すことは、カンボジアに閉ざされない思考の可能性を提示しています。

あ、もちろん、カンボジアにおけるクメール・ルージュの傷跡を、カンボジアの国内問題としてではなく、人道を踏みにじる国際的な問題としてきちんと把握しておく必要は、映画の問題とは別に存在しています。ただ、それだけでは、私は弱い、と思っています。安易な言い方をしてしまえば、それは、前提、知識に過ぎない(可能性がある)。私たちが、他者に起こった出来事を思考する際に、映画というフィクションと、映画という記録媒体がいかに有効であるか、そこから、映画が思考としてどのような力を帯びているかを、別途考える必要があると思っています。それを、人道の問題としてカンボジアに起こったことを思考する際に、同時になすことで、思考は自己批判的な契機も孕みながら、他者を真に想像するとはどういうことかをあらわにしていくのではないでしょうか。

うーん。我ながら、よくわからない言い方になっている気がします(笑)。簡単に言えば、映画と現実を同時に思考することの有効性、みたいなはなしなのです。それは、私の駄文などよりは、「焼けた劇場の芸術家たち」をみることで鮮明になると思います。

FILMeX公式パンフレットによると、この作品は1966年にプノンペンに建設されたプレア・スラマリト劇場を舞台に撮影されています。この劇場は1975年のクメール・ルージュ占領のあとも破壊されることなく存続しましたが1994年、火事により焼失したのだそうです。リティ・パニュは、この劇場に、所属していた劇団員たちを集め、一応は脚本を用意しながら、劇団員とのディスカッションの中で、自由に変更されながら映画を作り上げた、とのことでした。

映画は、いつ再開するかめどの立たない劇場を守り、そこに住み着いて共同生活をしながら、誰が見るともしれない舞台を練習し続ける劇団員たちを主人公としています。ずっと背後に響き続ける工事音は、劇場のそばに出来るという、カジノの建築現場の音で、それは廃墟となった劇場との対比をなしています(もちろん、それはフィクションとしてではなく、現実の劇場の状況そのものでしょう)。復興の中にあるプノンペン、しかし、劇団員の一人、クメール・ルージュの悲劇を描いた舞台で主人公を演じる中年女性は、実際に収容所で虐殺を免れた中年女性であり、その心の傷が癒えずにいる、という設定です(もしかしたら、ほんとうにそうした体験をした人なのかもしれない)。また劇団員たちも、食にあぶれて食い詰めたまま、しかし行き場無く集まった、先のない現在を生きる人々として描かれていて、彼らの実際の生活がそうかはわかりませんが、映画では劇場の中に住むコウモリを食べ、庭でトウモロコシを育てて、どうにか貧しい食卓を飾っているのでした。それは、少なくとも劇場自体の運命には相応しいのかもしれません。天井が崩れ、既に廃墟となっている劇場は、おそらくいずれは取り壊される宿命にあるだろうと想像されるからです。

その過去と現在の傷(困難)と生が、現実の劇場の置かれた状況の上で、演じられていく映画であるのでした。映画の中では、舞台の練習が、現実と混同されるような形で繰り返されます。たとえばCMに一人だけ出演し、ギャラを得た仲間を、冷たい目で見つめる劇団員たち、といった劇の練習風景は、実際にその仲間が、直前にCMの仕事を得ているために、現実なのか舞台上の演技なのかよくわからない(ただし、多少会話が過剰すぎたりするので、違和感を残したりする…それも作為的になされていて、違和感が、実は舞台の練習だった、とわかることで解消されるわけではなく、むしろいってはいけないことをいってしまったかのようなしこりだけが残る)のでした。では、映画のラスト、捨てた妻子に会いに行く劇団員のエピソードは、リアルなのかそうではないのか。再生の希望はフィクションなのか、それとも演じられただけのものなのか、または演じること自体に希望が存在しうるのか。

私は、健全な思考を、そこで育む可能性において、演じること・映画・フィクション自体にある希望には、やはり賭けておきたい、と思っています。ああ、素朴な宣言だ(笑)。

しかし、廃墟の劇場は、カメラの前に厳然とあるのですね。そして、クメール・ルージュの記憶と、それは、直接的に結びついてもいます。だから、希望=演じることとは、やはりとてもしんどいことなのだと思います。どうやって、生き延びていけば、いいのでしょう。