成瀬巳喜男(16)/ XTC

BGM : XTC「Nonsuch」

Nonsuch

Nonsuch

T1「The Ballad Of Peter Pumpkinhead」T6「The Disappointed」のアンディ・パートリッジらしいひねくれ性格悪いポップスが大好きなアルバム。やはり一筋縄では行かないコリン・ムールディングのT2「My Bird Performs」も好きだなぁ。あきの音楽かどうかは知らない。でも、このポップスは、深夜に。T14「Wrapped In Grey」も好きー。

偶然、2つの映画を続けて見る。そこに、共通する部分と、相反する部分のそれぞれを見つけて、それを機軸に思考が始まる。良くあることだと思います。今回は成瀬の「乱れ雲」と「山の音」です。この2作の共通項は、あらかじめ不可能な恋人たちの映画であるということです。「乱れ雲」は、夫をなくした司葉子と、その夫を事故で殺してしまった加山雄三の映画です(成瀬の遺作)。「山の音」は、妻(原節子)に酷薄な夫(上原謙)に代わって、嫁をいつくしむ義父(山村聰)の映画です。それがまず、この2作を結び付けます。しかし、相反するところもある。それは、その不可能性が、複数の人間同士が作る関係の網の目の中に内在する「山の音」(平たく言えば、息子、妻、という人間関係が厳然としてあり、それを維持していく以上、その人間関係のモラルとして、山村と原の関係はありえない)に対して、そうした人間関係からどこまでも切り離された孤独な二者が、それでも二者の間に横たわる記憶において、愛し合えない「乱れ雲」という言い方で整理できます。「山の音」は1954年の作品、「乱れ雲」は1967年の作品です。13年の間に、家族という制度がどう決定的に変わったか、この二作だけではなく、成瀬の映画を時系列的に見ていくことで、確認できると思います。

以下、「山の音」「乱れ雲」ネタばれです。

乱れ雲」は、死ぬことがあらかじめ禁じられた映画なのだろうと思うのです。何故なら、まずは死から、この映画が始まり、そしてその死が、人を徹底的に孤独にしていくからです。どれほどの困難や不可能がそこにあろうとも、死という終わりを迎えることは、この映画の男女には許されない。何故なら、この映画の男女は互いに、それが不幸の結果ではなく、更なる不幸のきっかけになるとわかってしまっているからです。だから、加山は司に「幸せになってください」などという、恋愛映画の締めくくりとしては、少し間の抜けた台詞しか言うことが出来ない。しかし、この言葉しか可能ではない無残、というのがある、と言えるのです。

この映画は、司葉子演じる通産省のエリート官僚の妻が、夫の海外栄転が決まったとたん、その夫を加山雄三が運転する車の事故でなくしてしまうところから始まります(海を渡ろうとして死んで行く、という意味では、このあっという間に死んでしまう夫は、実はとても成瀬的な存在です)。自動車事故自体は不可避なものでした。加山雄三に事故責任はないのですが、一本気な彼は、人を殺してしまったことを背負い、安月給の中から賠償金を払うことに決めます。司葉子は、金を受け取ること自体に拒絶反応があり、返せるなら夫を帰してほしいというほどなのですが、しかし結果的には、その送られてくるお金こそ、夫の実家の要望で籍を抜き、夫の年金を失った司が、女ひとりで生きていく支えとなります。

その金は、司から見れば夫の記憶に深く結びついていますし、また加山から見れば、贖罪と深くかかわっている、つまり単に義務や保障ではなく、それぞれにそこに深い人間的な問題の焦点があります。これに対し、周囲の人間たち、例えば司の義理の両親は、あっという間に籍を抜くことを要求してきますし、司の姉の草笛光子は、司のために保証金を得ることには熱心ですが、その身内に金を与える熱心さとは裏腹に、妹を自分の家に住まわせるかどうかについての話になると、途端に冷たい反応になるのです。あるいは、司が生家(しかし今は、死んだ兄の妻、義理の姉の名義になっている)の、十和田湖畔の旅館に帰ると、義理の姉(水戸光子が演じる)は、彼女を歓待するし、未亡人同士の女の連帯も確かに見られるのですが、他方で美しい司を自分の商売の道具にしようとしているきらいがあり、かつ本質的には他人であり、水戸は水戸の恋愛の問題で手一杯(相手は妻子もちの加東大介)なのです。司が、加山との関係でゆれているときに、そんな司とはまったく関係のなく水戸が加東を探してそこかしこに電話をかけ続けているシーンでもわかるとおり、司は、ただどこにも帰属し得ない孤独さを生きている、すると、彼女の周りにある、もっとも人間的な関係が、加山との関係になるのです*1

これは加山においても同様です。加山は、まず会社から切り捨てられ、青森に飛ばされます(彼に自己の責任がなく、会社の命令でなすべきことをしていた…海外の客にコールガールを紹介し、車に乗せていた…だけであるにもかかわらず、通産省の官僚が自己の相手であったばっかりに、厳しく処罰されてしまう)。そして同時に、恋人だった常務の娘にも振られてしまう*2。また加山には、田舎に家族がいるようですが、元々、その関係は希薄であるのか、浦部粂子演じる母親が青森まで尋ねてきて、実家に戻るように言っても、彼にはまったくその気がないようです。東京で一人暮らしをする。田舎をあとにする。そうした不可逆的な選択が、恐らく加山の中で行われていたのでしょう。成瀬の人物は、一度切り捨てたものに、再び、良い意味で戻っていくことが出来ない存在だと思います。例えば「朝の並木道」を思い出しながら言っています

こうして整理していくと、加山と司が惹かれあうのは、まるで地球に最後に残された男女のような必然性を帯びているように思えるのです。二人の間にしか、本当の意味での人間の関係は、もはや残ってなかったのではないか。

以下、「乱れ雲」かなりのネタばれに突入です。

成瀬の映画です。司が十和田湖に向かうバスの中で、死んだ夫の水辺の記憶とともに十和田湖が広がるシーンでは、続けて成瀬を最近見続けている身であればなおさら、死を予感します。また、それは当たってもいます。湖の自殺隊を捜索するボートを見ながら、不吉な予感に加山の会社に電話してしまう司は、二人の関係の不可能性が、加山を殺す可能性を感じているわけです。その死体は加山ではなかったわけですが、その司の予感もまた、間違ってはいません。半ば加山は、司とはなれるために転勤願いを出した結果、ラホール、当時まだコレラの発祥地として知られていた東パキスタンへの転勤を命じられてしまうのです。彼は、果たして生き残ることができるのか。

いや、生死の問題ではないのでしょう。地球の最後の男女のようになってしまった加山と司が、「幸せになってください」という言葉を間にして別れ別れになっていくとき、行き止まりの湖の桟橋のほうに静かに歩んでいく司と、ラホールへとつながる汽車の中にいる加山は、死ぬことが禁じられた状態で、別種の死の中におかれたのかもしれません。実際、この二人は、今後、二重の喪失(司は、夫と加山を、加山は仕事・恋人と司を)の記憶を越えて、新しい関係を、もはやどこにも人間的なつながりのないところで、作り上げていくことができるのか。

高熱を発し、倒れた加山の手を、司が乞われて握るシーンは、美しいと言うか、うずくというか(笑)、とにかく記憶に残るシーンですが、しかしこの二人の間の不可能は最初から予感されてもいるので、痛いシーンだとも言えます。それでも、すべて踏み越えて加山の部屋に司は向かうのです。階段の上下に別れて、じっと見詰め合う濃密な切り替えしが、タクシーで二人して、山奥の旅館に向かうショットへと連なっていくクライマックスは、二人には可能性があるのかも、と成瀬の映画なのに思わず錯覚するほどです。けれど二人は踏み切りの遮断機に行き当たります。遮断機の音、不気味な音を立てながら通過する列車の音は、二人の記憶(と観客の記憶)をまさぐり、そういえば司の夫が死ぬ直前に、草笛と司が、踏み切りの遮断機の前を歩いていたショットとつながりながら、不可能なものは不可能であると示し、そしてそのタクシーは、真新しい事故現場へと、当然のように二人を連れて行くのでした。それでもなお、乗り越えようとする二人は、しかしついに、旅館から救急車に運び込まれる血だらけの事故の被害者を見て、彼らが彼らの記憶から逃れられることはないと悟るのです。

ただ、この司と加山の抵抗は、二人で(孤独なもの同士で)、ともに戦われるという意味では美しかったとも思うのですね。これに対し「山の音」は、別種の痛みがあります。ここでは、密接な人間関係が一方でありながら、他方、義理の両親と嫁のあいだには、若い夫婦だけの問題もあって、つまり垣根もあるわけです。同一の空間の中で、家族生活が美しく機能しているように見える一方で、無数の亀裂が走っているのです。

以下、「山の音」の致命的なネタばれです。

そしてそのひずみは、「山の音」でも堕胎、という形で現れていきます。夫(上原謙)の浮気が、本質的な問題だったのかどうか。愛情は一応あるが、しかし愛し方を知らない上原のエゴイズムへの否定だとして、では堕胎への強い原の意志は、エゴイズム、という言葉が不適切だとしたら、孤立への意志ではなかったかと思います。その強い切断が、機能する家族をその根元から否定してしまう。一見、映画のラストでは、山村聰原節子の間には、穏やかな相互理解があるようにも思えます。実際、互いに尊重するものはあったでしょう。しかし、自分と妻は信州への引越しを考えている、といい、息子といつくしんできた嫁との離婚を認める山村もまた、彼らが存在することで機能していた家族(腹は岐阜が引き留めたら、残らざるを得なかったかもしれない)を、我から破壊しようとしているとも言えます。「幸せになっておくれ」と、山村は原にいいます。しかし、そのとき山村は、妻や、実の息子・娘の幸せを、考えていたのかどうか。しかし、とはいえ原と山村の関係も、ここが行き止まりです。「幸せになっておくれ」という言葉以外に、二人の間につむぎうる関係はありません。「乱れ雲」と、その点では同じなのでした。

夫にではなく、義父に、もっとも弱い自分を見せてしまう原は、山村といくつかのシーンで、エロティックとしか言いようのない濃密な瞬間を作り出します。鼻血を出しながら上を向き、タオルで鼻を押さえながら流し目で山村を見る原の、壮絶な妖艶さがまず挙げられます。山村に、夫と心中するなら遺書を残すかどうか問われて、涙を目に溜めながら「お父様になら、なにか」と言いかけて去っていくシーンもありました。そういえば、前述の映画のラストシーンでは、山村は原に、信州に引っ込んだら手紙を送ってほしいと頼むと、原は二つ返事で「はい」と答えるのでした。そこにある、一見端正な、やり取りの中にある「微妙さ」に、この映画が無数に抱え込んでいる人間関係の亀裂の中で、あらかじめ不可能な恋人同士だとわかっているからこそ可能な「示し合わせ」とでもいうものを見るのです。そして、重要なのは、その「示し合わせ」自体が、一家の崩壊を促進したのではないか、という怖さです。

対比的に、酔って帰ってきた上原が、寝床から襖越しに原を二度呼び、振り返る、そのときの原の凝った視線を思い出してもいいかもしれません。夫の、心ない言葉のひとつひとつに、顔を強張らせる原は、しかし家族の前ではまだ、すぐに笑顔へと戻っていきますし、山村と二人きりであれば(映画の最後、二人はようやく本当の意味で二人きりになっていると思うのですが)、弱さをさらけ出すこともできるのに、上原の言葉に対しては、強張った視線を投げます。けれど、これを単に拒絶ととるわけには行きません。もしかしたら、その強張りの中には、上原が愛人に語ったように、じらされた原の欲望も秘められていたかもしれないのです。ただ、どちらにしてもそれは、夫婦の慈しみとは程遠い場所にある視線です。その強さが、堕胎という否定(それは家庭、夫だけではなく、恐らく自分へも向かう否定)につながっていくのです。

一方で、上原謙の愛人が、妊娠し、私生児を生むと決めた上で、上原と別れたという話を、山村が聞くシーンもありました。息子との関係をただすために山村は行った。しかしそこで山村は、上原が流産させるために、愛人にひどい暴力を振るったことを耳にします。家庭の中では、夫婦仲を円滑に運んでいないということをのぞけば、そう問題のない実の息子が、不気味な見えない部分を持っており、かつその見えない部分が、家庭の中を蝕んでもいて原に堕胎を決意させ、他方で、愛人との間に出来た子供は、山村との間を決定的に隔てられてもいるのでした。山村が目撃するのは、孫という可能性があらゆる場所で摘み取られていく様子です。その殺伐とした風景の中で、しかし山村は穏やかさを失いません。それは、おそらく彼が明快に愛情を感じる対象は、結局、原しかいないからかもしれません。だとしたら、もっとも恐ろしいのは、やはり山村です。本質的な問題は、山村が無条件に子供(上原も、彼の姉も)を愛してはいない、ということではないでしょうか。

そう思い当たって、山村の出戻りの娘と、孫娘の関係を見ると、いつも母親のあとについて回る娘は、しかしことあるごとに遠ざけられたり、ヒステリックにしかられたりします。山村の娘は、劇中幾度も、自分が如何に愛されない子供だったかを語り、またそれを山村の妻も肯定するのです。

乱れ雲」が、孤独な二者の、不可能な愛の物語だったとして、「山の音」は、孤独ではない二者の、不可能な愛の物語だといえます。そして、より「山の音」が残酷な映画であると言えるのは、孤独ではない二者の不可能な愛の物語は、その周囲に、その二人とちゃんと関係の結べなかった多くの人々と、しかし分かちがたく結びついているところなのです。その身動きの出来ない痛みは、「乱れ雲」とは別の意味で、別れも死も許しません。その身動きの取れなさのままに、映画は始まり、そしてどこまでも広がっているが行く先はまったく乱せない公園の中で、映画が終わっていくわけです。「山の音」において、川も海も現れないのは、偶然ではありません。成瀬の海や川に取り囲まれた残酷さ(死や終わりを許す残酷さ)とは別種の残酷さが、「山の音」にはあるのです。

*1:ところで、この映画における司は、妊娠していたはずなのに、いつの間にか子供を失くしています。流産したのならば、流産と語られるはずであることを考えると、恐らくは堕胎であり、そしてその背景には、籍を抜いたこと…単に経済的な理由だけではなく、直系の子供を、籍外の女性にもたれたくない義理の両親の意向などもあったのかもしれません。このことは映画の中で明確に語られていない部分なのですが、かなり意図的な省略であるように思えます。司は、あらゆる意味で切り離された存在となり、彼女に残されたのは、夫との記憶と加山との関係だけになるわけです。

*2:このシーンは印象的で…浜美枝が、加山の部屋にいて掃除を終え、ハンカチを窓に貼り付けているところで加山が帰ってくるのですけれど、別れ話の決着がつきそうなところで、その窓のカーテンを、無言で浜が閉めるのですね。それは、とてもエロティックな瞬間なのですが、加山はざっとカーテンを開けて、その空間を回避する。窓の外からざっとカーテンがあくショットひとつで、加山は東京の人間関係を切断していきます。