エルンスト・ルビッチ / Messiaen

BGM : John Ogdon「メシアン:幼児イエズスに注ぐ20のまなざし」

メシアン:幼児イエズスに注ぐ20のまなざし

メシアン:幼児イエズスに注ぐ20のまなざし

なんか、久しぶりに聴いてます。そっか、こんなアルバムだった。うん。

精神の健康のために、年に1度は見直したい映画というのがいくつかあります。ただ、この「健康」という概念が、共有されないがために、では具体的な作品は、と問われて、神代辰巳の「青春の蹉跌」であるとか、シドニー・ポラックの「ひとりぼっちの青春」であるとか、ジャック・ベッケルの「現金に手を出すな」とかを挙げてしまうのは、むしろ一般的には「病んでいる」といわれてしまいそうなのです。けれど、これは広く許される感じです。「天国は待ってくれる」。エルンスト・ルビッチですね。この映画をスクリーンで見たときの幸福を、私は生涯忘れないと思います。確か、あの日は、38度の高熱を発していて、ふらふらだったのでした。でも、どうしてもと思って劇場に向かい、文字通り天国を垣間見たのです。マスクで完全防寒にして、片道1時間半かけて*1

「天国は待ってくれる」、日本でもDVDが出ないものでしょうか。熱望します。

さて、現在アテネ・フランセ文化センターで開催中の「ドイツ映画史縦断1919-1980」で、ルビッチのドイツ時代のサイレント映画が4本上映されたのでした。恥ずかしながら、どれも見ていなかったものですから、出来ればすべて見たかったのですけれど、諸事情から「牡蠣の女王」「パッション」の2本のみ鑑賞となりました。残念。

なにが残念って「牡蠣の女王」「パッション」の2作が、素晴らしかったからです。「寵姫ズムルン」と「デセプション」もめちゃくちゃ見たかった。特に「寵姫ズムルン」。上記公式HPにおける「寵姫ズムルン」の紹介文を見ると、悔やまれてなりません。

以下、かなりネタばれです。

「牡蠣の女王」は、アメリカの牡蠣成金の令嬢が、ライバル成金の令嬢が貴族と結婚したというニュースを新聞で読み、家中のものを破壊して悔しがったあと、父親に、自分にも貴族の夫をとせがむところから始まります。このめちゃくちゃな暴れぶりが、まず気持ちよいのですが、でっぷりと太った成金の父親の、手の付けようのない娘のわがままを、受け止めてまったく平然としている重たさも、またステキです。結婚相談所がみつけてきた、血筋はいいけれど金がない二枚目のプリンスは、はったりもあって、まずは自分の執事を牡蠣成金の家に送り込みます。細やかな演出がとても上手い。やってきた執事をプリンスと勘違いした娘は、相手を待たせることなどお構いなく、ものすごく大勢の召使に、風呂やらマッサージやらをさせて、まずは身だしなみをするのです。待ちぼうけを食っている執事は、あまりの退屈に、床の模様に添ってぐるぐる部屋を回って遊ぶくらいしかすることがありません。しかし、この床の模様と戯れる執事の回転運動と、システマチックに娘を磨き上げる召使たちの運動がマッチしながら、全体として映画のスピード感となっているのですね。その運動の豊かさと、スピード感が、次にあっという間に執事と娘が結婚式を挙げてしまうまでの勢いとなるのです。

執事はなかなか太いやつなのです。自分の主人の名前を使って、平然と結婚式を済ませると、滅多にありつけない結婚式のご馳走とうまい酒をたらふく飲み食い、でも新婦とのダンスなど見向きもしない、実に欲望に正直な人間で、だから新婦にはあきれられてしまうのですが、彼女は彼女で「貴族と結婚したかった」だけで、別にそれが「愛情の対象」ではなかったのだから、別段それで傷つくわけでもなく、ベッドをともにと迫ってきた執事を、あっけなく追い出して自分の部屋で一人眠ってしまうのでした。

この、ある意味極端に、自分に正直な二人は、普通に考えれば愛もないのに結婚した愚かしい二人なのですけれど、これは映画です、そして映画に必要な健康なスピードを備えています、だからどのような逆転も可能で、結婚の翌日、悪友と飲みふけって泥酔したプリンスが、ひょんなことでアル中更正委員会の乙女たちの只中に運ばれてくる、すると二枚目だから誰が介抱するかの取り合いになり、ボクシングで決着をつけるといった牡蠣成金の娘が、その腕力で介抱する権利を手に入れると、これまた恐ろしく正直な欲望のままに、プリンスをそれとは知らずに我が家に連れ帰るのでした。夫の部屋にはまだ夫が眠っているので、仕方なしに自分のベッドに寝かせていると、いい雰囲気になり、そこに執事が現れて…といっても、修羅場にはなったりしないのです。スピードを帯びて突き進んできた映画は、その運動神経において嘘のように、執事がプリンスの名前で結婚したことを告げ、若きプリンスと娘はハッピーエンドになってしまうのでした。

ああ、ルビッチだなぁ、と、例えば「生活の設計」を思い出しながら思うのです。男女の「一般的な」モラルなどは、とりあえず良いのです。映画の健康さ、スピードが、魅惑的な男女を繋ぎとめていき、そこに予想外の連結が出来たとしても、映画として肯定されるべきだ、という確信。その美しさ、豊かさに打たれるのです。

生活の設計 [DVD]

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「パッション」は、フランス革命で断頭台に散った実在の人物、デュ・バリー夫人(「ベルサイユのばら」でおなじみ?)の物語です。帽子屋で働くお針子が、貴族の愛人となり、それがきっかけでルイ15世の公妾にまで上り詰めて、絶大な権力を握る、という物語なのですけれど、ルビッチは、浮気性ではあるけれど憎めない、気のいいデュ・バルー夫人像を作り上げていて、権力を手に入れて、好きな男を死刑から救ったり、けれど、王様の元での生活も楽しいし、王様が天然痘で死ぬとなったら、皆が逃げ出す中でも一人健気に心配するし、可愛い女性なのです。

この映画は、破天荒な「牡蠣の女王」と比べれば、だいぶ正当なメロドラマですけれど、一介のお針子から、王の愛妾まで上り詰めていく娘の、一種の運動神経(これは、気取らない優しさや女性的な魅力:王様を前にしても、膝にちょこんと座って、恥じらいなくぱっとキスしてしまったりする、その恋愛動物としての)と、その成果としてのスピード感が素晴らしいのです。3人くらいの男性の間を無邪気に行き来する様とかも、決闘騒ぎで人が死んでも、ぱっとその決闘を上手く逃れた3人目のところにちゃっかりと納まっていくのです。でも、実は決闘騒ぎで恋敵を殺してしまった青年こそを、一番好きでもある。ただ、ルビッチ的恋愛動物の少女は、だからといってそこで運動神経を弱めたりしないのですね。軽やかに渡っていき、そして、遂にルイ15世の元にたどり着くのです。その運動神経は、決して情の軽さではないのですね。むしろ情に厚い。ルイ15世に愛されるようになっても、愛する人を死刑から救ったり、昔のパトロンのために多額の金の工面を手伝ったり…ただ、そうした無邪気な情の深さは、放蕩三昧の宮廷のなか彼女の権力が強まるのと比例して、民衆の生活を圧迫する貴族の象徴となり、一庶民の感性と情をもった彼女は、多くの庶民に憎まれるようにもなってしまうのでした。

ごく自然な、恋愛動物としての運動神経が、彼女を断頭台に連れて行く悲劇。ただ、この作品はどこまでも軽やかです。軽やかというのは、朗らかな前半のコメディ調がずっと続くというのではなく、デュ・バリー夫人の運動神経が衰えないってことです。歴史上、本当は、ルイ15世が死んでから、デュ・バリー夫人が処刑されるまでには十数年の年月が流れるのですね。ただ、映画は彼女の運動神経において、その歴史の十数年をあっという間に飛び越させてしまい、またマリー・アントワネットとの確執といった有名な歴史的エピソードも全部排して、彼女が助けた青年が裁判官となって彼女をさばき、断頭台へ送ろうとするエピソードに、あっという間に繋げるのでした。そのジャンプする運動神経において、彼女は恋愛動物なのです。もちろん、一切老けません(笑)。

実際の歴史でも、デュ・バリー夫人の死刑執行人は昔の恋人だった人物といわれていて、忍びなく自分では処刑できなかった執行人が、代わりに息子に処刑させた、という逸話が残っていますが、映画では、そこは映画ですから更に脚色して、裁判官となった恋人は、有罪判決をだしながらも彼女を助け、自らが代わりに犠牲になる決意をする、しかし救出に失敗、恋人は銃弾に倒れ、デュ・バリー夫人は歴史通り断頭台に消える、という展開になるのでした。フランス革命がはじまってからの映像は、革命ですし、牢獄ですし、裁判ですし、断頭台ですし、前述のように、そのショットショットは決して軽くはない、むしろ堂々とした熱気あるモブシーンのショットの積み重ねとなっているのですが、デュ・バルー夫人という存在の運動神経によってそれらは余分無くつなぎ止められ、そして、断頭台のシーンですら、ただギロチンの歯が落ちるロングショット1つで、ぱっと映画の終わる、その鮮やかさを見ると、ルビッチはどこまでも、デュ・バルー夫人の、恋愛動物としての運動、様々なものをつなぎ止めていく、歴史のお針子的スピードを映画にしたのだなぁ、と思うのでした。

*1:しかし…世の中にはものの価値がどうしてもわからないだけではなく、わからないことをわからない人もいるのだなぁ。だから、わからないことをわからないってことまで、発信してしまう。それは、閻魔大王の前で、スカートをまくって足を見せたとたん、地獄行きになる女性と、紙一重、いや同じかな?って、独り言ですけどね。