ビフォア・サンライズ / 魔笛

BGM : モーツァルト魔笛」(William Christie; Les Arts Florissants

モーツァルト:魔笛(全曲)

モーツァルト:魔笛(全曲)

あ、安直?(笑)でも、何故このCDを買ったのか思い出せないシリーズです(笑)。何かの関係ですごく聴きたくなったのだと思うけれど、なんの影響だろう?

…そんなわけで。少し前にリチャード・リンクレイターの「ビフォア・サンライズ 恋人までの距離〈ディスタンス〉」をDVDで見たのですが、何も書かなかったのは、手元にその続編「ビフォア・サンセット」があったからで、両方見てから何か書こう思っていたのでした。ところが、いろいろ見て回ったりしている間に、時間だけどんどん過ぎてしまい、記憶が失われつつある(半ば失われてしまった)ので、あわてて何か書いておこうと思っているのです。

ビフォア・サンライズ 恋人までの距離 [DVD]

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美男美女(イーサン・ホークとジジュリー・デルピー)が偶然電車の中で出逢って、ウィーンから飛行機に乗る男にあわせて女も誘われるままに途中下車し、一晩、共に馴染みの無い外国の町で過ごしていく中で互いに心惹かれていく、という話自体が、まずとてもロマンチックです(特に美男美女ってところが・笑)。つまりはフィクショナルである。嘘っぽい。しかし、冷静に考えれば、そもそも映画なんて、ロマンチックでいいわけですし、これは難癖の域です。たとえば、もしリアルに、この映画の男女がたいして美男でも美女でもない配役だったとしたら、うそ臭くなくなる替わりに、薄ら寒くなるかもしれない。もし、男女のビジュアルもリアルであるべきといったら、世界中の映画監督がアキ・カウリスマキ的な配役をしなければならなくなります。が、もちろん、アキ・カウリスマキのあの美しさもまた、フィクションです。

インテリジェンス溢れる会話です。確かに非アメリカ的インテリアメリカ人青年(イーサン・ホーク)と、フランスのインテリ美女(ジュリー・デルピー)の、少し斜に構えた会話ではあり、そうした国籍的役割をかなり意識した人物造詣であるところにはあざとさがありますが。もし本当にこういう会話を交わしている男女がいたとして、脇で聞いていたら、気取っているとも感じるかもしれません。他方で、若い、青さみたいなものも、会話の端々に覗かせるところが、脚本の巧みさです。しかし、そうした「青さ」よりも、恋愛の駆け引きが絶えずその会話の中で行われることに、リアルさを感じます。

この映画で男女の関係は上手くいきます。しかし、それは単に、会話がかみ合っているからではなくて、出逢った二人が、共犯的な駆け引きの中でそれを目指すからです(言い換えれば、二人は恋愛の共犯者たりうるか、互いをずっと試しているような感じです)。それは、恋愛の始まり方として、スタンダードではないかと感じますし、それをフィクションと感じてしまったら、上手くいく恋愛はすべて嘘になってしまいかねないと思うからです。

たとえば観覧車です。観覧車はこの映画において、都合の良いロマンチックな小道具ではありません。というのも、彼らは、対等な会話をする男女として徹底して描かれているからです。観覧車に乗り込むのも二人の意思であり、一方の都合ではありません。そこには明確に二人きりになって何が起こるか、という意識も働いていたはずです。もちろん、予想が具体的に成立するかどうか(キスするかどうか)は別の問題です。ただ、恋愛映画として成立させるためにご都合主義的に観覧車があるわけではない、男女の暗黙の目的意識において、それは必然的に現れる、リアルさなのです。デートでは他の人に邪魔されないところに行くのは、男女の人間的本能です。

二人は、短い時間しかないからこそ徹底的に言葉でアプローチしあいます。それが相互にとって一番都合よかったからだと思います。逆を言えば、その状況下で過剰になりがちな言葉の量を、どう恋愛映画にしていくか、という試みがこの映画だといえます。敢えて量的に過剰な会話の中に駆け引きをしのばせながら、どうちらちらと視線を交し合うか、問題ない程度に寄り添いあうか、決してうぶな男女ではないわけです、そうしたしたたかさが二人の時間をスリリングにしていきます。そうしてリンクレイターは、じっと見つめる視線の醍醐味とか、そっと握る手だけですべてを語る映像的なインパクトとかではなく、美しくロマンチックなウィーンの風景を切り取ることよりも、会話の持続する路地をただ歩くシーンを優先して、恋愛映画を作っているわけです。

この映画で一番フィクショナルなのは、リアルな駆け引きを行う男女が目指している恋愛の決着かもしれません。限られた時間の中で、二人の男女が、どこにたどり着けるかという探り合いをしているのを見る映画です。必然、男女の会話にはどこか、強く挑発的なものがこめられたり、性急な告白がなされます。この男女は最初から意識してロマンチックな/恋人になるための会話をしようとしていたとは言えそうです。相互に意図的な会話であす。そして、意図的たるためには、漠然とでも目的があるわけです。そこに、恋愛(映画)における、フィクション=目的とは何なのかを考える内部批判的な可能性もあるかもしれません。

とはいえ、この男女にとって恋愛はゲームでもないわけです。そして、ゲームで無いなら、その一晩の恋愛の濃密さは、一度体験をしてしまったあと、再び取り戻すのは不可能な濃密さではないかと、これは勝手な想像ですが、思います。と、もしかしたら、この男女が下手に再会してしまうと、あの成瀬巳喜男の「浮雲」の、森雅之と高峰秀子のような残酷な状況に、突入してしまったのかもしれません。ああ、恐ろしい。 早く「ビフォア・サンセット」も見ないといけないですね。

私はこの映画の、男女が別れてしまった朝の、それぞれ一人ぼっちになったあとの短い描写(ジュリー・デルピーが黙って、無表情に列車の席に座っている描写とか。イーサン・ホークはどこにいたかな?記憶が定かではないですが、やはり無表情であったとは思う)が印象的でした。一種の放心、濃度からの開放がそこにあった気がします。一番のリアルは、もしかしたらこの放心にこそ、あるかもしれませんね。無表情といっても、柔らかさを帯びて記憶しているのは、映画全体から受けた印象の影響なのか。もちろん、朝の光の中にそれぞれ俳優がいることも大きいでしょう。

ムルナウの「サンライズ」を見直したくなりました。

サンライズ クリティカル・エディション [DVD]

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