大島渚 / XTC

BGM : XTC「Skylarking」

Skylarking

Skylarking

ああ、好きなアルバムだ…T1「Summer's Cauldron」からうねうねなポップセンスが全開で。でも、このアルバムで一番好きなのは、T4「That's Really Super, Supergirl」T5「Ballet For A Rainy Day」T8「Earn Enough For Us」とか好きな曲揃いの中で、T13「Dying」だったりします。Don't want to die like youの繰り返しが気持ち良くて…。

少し前まで、新文芸坐で上映していたATG特集において、大島渚の「新宿泥棒日記」(1969)「東京戦争戦後秘話 映画で遺書を残して死んだ男の物語」(1970)を見たのでした。

新宿泥棒日記 [DVD]

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東京戦争戦後秘話 [DVD]

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「東京戦争戦後秘話」は、脚本に原正孝(現・原将人)と佐々木守が参加、クレジットを見ると主題として大島渚田村孟の名前もあります。撮影監督に成島東一郎、音楽に武満徹と、実に「豊か」だなぁと素朴に思いますね。大島渚は、当時のアマチュア映像作家たちと組んで本作を作ったのだとか。後藤和夫、岩崎恵美子の主演二人も印象的です。

この映画は、自分自身が自殺する幻影を見た男が、本当に自殺するまでを描いた作品という見方も出来ますが、そう考えると最初から存在している、遺書のフィルムは誰が撮ったのか判らなくなります。しかし、誰もが撮影しうる、ドラマが何一つない街角の風景の連続である、という意味では、その映像は、映画の中に潜在的に存在し (リュミエールにも通じながら)、どこにも誰にも帰属しないまま、何も物語が起こらないがゆえに、何もかもが存在する可能性を秘めているのでした(そのことは、エンプティショット群を再現しようと後藤がカメラを持って町に出る、すると岩崎がカメラの前に現れて、様々な暴力にさらされる、という一連のシーンに、直接的に示されます)。それは、フィルムのロールの終わりを使って撮られた捨てショットに過ぎなかったのかもしれません(捨てショットを見て、過剰に後藤が反応するシーンがありました)。学生たちがディスカッションし続ける「物語/革命」の限界地点で、「映画/革命」の可能性はあるのか(現実の革命の行き詰まりもそこにあるなかで)。吹き出てくる、エンプティショット群、そしてそれを撮っている自分が、「東京戦争戦後秘話」という映画を撮っているカメラの前にいること(ここにおいて、出演者たちが実際にアマチュア映画作家だったことは大きい)、自分のまなざしと自分を見つめるカメラとのあいだで、「物語/革命」の限界の隙間に、なお映画がある、ただあることは、革命の可能性とつながるのか。もし、そこに通路があるとしたら、見失われた「物語/革命」への誠実さ、倫理が、「映画」に残される(つまり、物理的に「映画」がフィルムとなって、繰り返し映写されることでその喪失を「残す」)ことが重要で、しかしそこには絶えずあやふやがあり、倫理的に行こうとすれば、そのあやふやさの前でのゆれを、出現させないわけには行かないのです。

青春映画ですね。

「新宿泥棒日記」も、青春映画です。横尾忠則演じる万引き青年と、紀伊国屋書店の偽店員と、紀伊国屋書店社長の、奇妙な三角関係。ここでは逆に、エンプティショットが「残る」、といった提示ではなく、書店の床に積み重ねられた書物が、過剰な言葉の増殖を引き起こし、あるいは車座に座った男たちが、セックスについて熱く語りながら、どこにも行き着かない宴をしているのを映し出し、その一種の空転が、実際の男女の交わりと上手く連結できない(しかしそれはなされる)ことを続けていく映画です。だから、横尾忠則は、空虚さを帯びてどこまでもクールです。懐疑的というよりも、実践の空転を、あらかじめ承知で繰り返す、という空虚さです。それはどこかで、映画の本質に通じていくのかもしれません。映画は空疎だ、といいたいのではなくて、フィルムが回り、虚像を映し出す、演じること、そうしたことの中の本質に、ある種の空転は潜在的な機能としてあり、それをあたかも存在しないかのように多い尽くすイメージの虚偽を許さないことが、映画作家としての矜持なのではないか、と思うのです。この映画では唐十郎の「状況劇場」に横尾が由井正雪の役を飛び入りで演じるというエピソードがあります。さらに、その演じる由井の、生首の人形を盗み出すというエピソードも登場します。横尾は、台詞もろくに覚えないまま舞台に立ちます。演じること自体を放棄する空虚さを演じる横尾の姿が、映画の本質の一部を指し示してしまうと感じます。演劇であれば伝わるはずの熱が、二次元の世界で、急激に冷えていく。

巨大な権力に対して、反乱を企てる由井の原動力は、浪人という社会からはじき出された不満分子の一群でした。それが1969年という映画の作られた時代と呼応関係を結び、映画の最後、新宿での暴動シーンへとつながっていきます。映画には、映画としての熱さがあるわけです。ただ、それは空虚な横尾のスタイルを通して、この映画の場合現れる、ということかもしれません。