成瀬巳喜男(17)/ あと1つで200 / 池田亮司

BGM : 池田亮司「1000 fragments」

1000 Fragments

1000 Fragments

「It's the most beautiful ugly sound in the world」という宣言。そしてつぎはぎされる、世界各地のラジオから拾ってきたような音楽の断片、世界各地のニュースの音声、電子音。不快なピー音。ザッピングで多チャンネルを横断し聴取することで感じる、世界のざらついた感触。これは、直球です。

あと1つで、200日続いたことになります。途中、いろいろインチキがありましたが、ご愛敬でしょう。あんまり根気のある方じゃないのに、続いたことに我ながらビックリです。とはいえ、息切れ気味でもあるのですけれどね。どこまで続くのか。あとは生活の環境の変化があると、どうしても、ここにものを書く物理的な時間にも変動が生じます。それによって、テキストの性質も質も大きく変わるでしょう。まあ、いまだって、ろくに見直しもせずアップして、あとから赤面するような記事も多数あるのですけれどね。

成瀬巳喜男について、続けていろいろ書いてきましたが、今日で、一区切りの予定です。飛び飛びの記事がどこにあるか、以下にまとめます。

9/19/39/49/69/179/199/209/219/259/289/3010/1310/1610/1710/2911/8

おお、けっこうな量ですね。それでも、見たくて見逃した作品も多数。「あらくれ」「コタンの口笛」「鰯雲」あたりは、まだ未見なのでかなり凹みました。「めし」「流れる」「驟雨」「妻」「女の歴史」「妻として、女として」などは、一度見てはいるのですが、もう一度きちんと見直したかった。とはいえ、こうしてまとめてみる機会を得たのは、嬉しい限りです。フィルムセンターさん、ありがとう。

DVD化されたものについては、正月にでも見直そうかなぁ。背伸びしてBOXを2つともゲットしたのでした。

成瀬巳喜男 THE MASTERWORKS 1 [DVD]

成瀬巳喜男 THE MASTERWORKS 1 [DVD]

成瀬巳喜男 THE MASTERWORKS 2 [DVD]

成瀬巳喜男 THE MASTERWORKS 2 [DVD]

成瀬巳喜男監督の映画では、たとえば襖の開け放たれた二間という<一つの空間>の、それぞれの部屋に男女を配し、その間にある距離感を切り返しの中で示すなどして、人間と人間の間にある関係性(惹かれあい、その垣根を越えて接近していく作用)と断絶(たとえ近づきえたとしても、二者の断絶は埋められない)とを、丁寧に、そして直裁で残酷なまでに描くシーンを、多く見い出すことが出来ます。「お国と五平」などは、まさしくそうした作品だといえるでしょう*1

昨日見てきた「乱れる」でいうと、深夜マージャンから帰ってきた加山雄三が、食卓で食事をしている、続きの間で、高峰秀子が、嫁に来た彼女が切り盛りしている酒屋の帳簿をつけながら、会話を交わしているシーンが思い出されます。25歳の義弟と36歳の義姉の間柄である二人は、加山がその強い恋心を告白していないこの時点ではまだ、ぐうたらだが高峰だけは敬愛し、甘えている加山、というほのかな関係性の中に、恋心が予感として見え隠れしているに過ぎません。しかし、高峰が仕事を終え、片方の部屋の明かりを消して加山の座るちゃぶ台につき、ついで加山が手をつけなかったご飯のはいった炊飯器を台所に片付け戻ってくると、暗い廊下で(そこは居間と台所を結ぶ小さい橋のように、板が掛けられているのだけど)、食事を終えて出てきた加山とぱっと行き会う、そうした家族である以上自然ながら、血のつながらない男女としては微妙な距離がさっと現れるのを、成瀬は相互の位置関係を明確にするスマートなカット割の中で示していきます。彼らがもっとも接近する廊下のシーンでは、店のある土間あたりにすえられたカメラから、逆光でさっと示す。恋愛としてはまだ何ら関係が進んでいない男女の間の、自然だがほのかな緊張感がそこに示されます。

そうしたほのかな関係性がまずは示されているからこそ、強い思慕の情を告白したあとの加山と高峰の、濃密な時間が現れるのです。義理の姉弟です。年齢差もある。その恋愛は、古い価値観をもって生きている高峰としては、まずありえないものです。しかし、店の中の、二人きりの空間で、加山が酒の配達から帰ってきて濡れたレインコートをまとっている、それを高峰が脱がそうと手を掛ける、すると黒くてかるレインコートのなかで緊張した若い体をこわばらせる加山の無言、呼応して自然な気持ちから動き出した手を止める高峰、その男女の間のエロティシズム。意識されていなかった男女の関係が顕在化されたことで、それまではほのかにしかなかったものが、すべて強い感情を帯びて現れ始めます。

以下、ネタばれです。

「乱れる」で、もっとも成瀬的な空間は、戦後直後、自分の腕一本で再建した酒屋から身を引き、財産を加山や義理の姉たちに譲り渡すと高峰が宣言するシーンではないでしょうか。高峰だけを除外して家族会議を開き、店をスーパーにする計画を進めている義理の姉たちは、口では高峰の幸福を願うようなことを言いながら、実際は、功はあるが血のつながりは無い高峰を追い出し、加山を中心にスーパーを作って、利益に預かろうとしているのです。その空々しい言葉を受けながら高峰は、18年の間家の犠牲になった、他に好きな人が出来た、と嘘をつく。加山は、ひとり卓に着かず(つまり空々しさを醸造する場には参加せず)、続きの間から、やや声を荒げるように、義理の姉たちをなじります。空々しさを否定してみせる。成瀬は、それらの中にある、同じ空間、あるいは同じ卓につき、向かい合って話ながら深く断絶した人間関係を、丁寧に切り返しを積み重ねながら示すのです。そして高峰の決意は固く、空々しさをすべて受け流した上で、一人静かに家を去るのでした。

空間は、制度にも通じています。このシーンでは、話の流れについていけない高峰の義母、つまり加山の実母が、上座に座って話を聞いています。高峰は末席に着き、二人の義理の姉は左右に座しています。実質、店を切り盛りしていたのが高峰だとしても、それが制度としての人間関係であり、そしてそこに、どれほど加山が思慕の情を募らせようと、高峰と結ばれるのが難しい理由も潜んでいます。

しかし、だからこそ、そうした制度の外に向かったときに、関係性を変える可能性が生まれるともいえます。成瀬において、乗り物はおおむね不吉なものなのですが(特に船、後期成瀬ならば車)、しかし列車はそういう意味では、決して致命的な乗り物ではなく、むしろ様々な可能性をはらんだものだと言えるかもしれません。高峰が、帰省のために乗った汽車の中で、後を追い家を飛び出してきた加山が、次第に席を近づけていく有名なシーン。そこで、どこまでも自分を慕う加山を見て、ようやく高峰も、加山と恋愛をしている自分を素直に認めるのです(夜行列車、朝を迎えた車中で、加山の寝顔を見て、高峰が思わず涙を流し、次の駅で降りましょうというシーンの高峰は、忘れがたいものがあります)。成瀬の列車というと、たとえば「歌行燈」の冒頭であり、「桃中軒雲右衛門」の冒頭であります。そこには、人が勝利に向かって変化する可能性の場を見出すことが出来ます(たとえ途中に苦難があるとしても)。あるいは「雪崩」を思い出してもいいかもしれません。心中を決意した男は、列車で名古屋に向かい、妻と共に思い出のホテルに泊まります。もし、この二人が、「浮雲」の二人のように船でどこかにわたっていたらどうだったのか、と想像するのです。「君と行く路」では、列車で出会った少女に一目ぼれする青年のエピソードもありました。

以下、致命的なネタばれです。

けれど、高峰と加山は、致命的な失敗を犯すのです。途中下車した二人は、バスで山間の温泉に向かいます。温泉街の中央に川の流れる銀山温泉。成瀬の映画です。川によって分断されたこの温泉街では、男女は必然的な別れを迎えざるを得ないのです。

高峰が、男女が温泉宿に行ってすることを理会していなかったとは思えません。私も女よ、と、思いを吐露する高峰は、加山を受け入れようと思っていたのではないでしょうか。しかし、高峰は、加山に抱きすくめられると、拒絶してしまう。結局、この男女の関係の不可能性は、もっとも深く、高峰の精神に組み込まれていたのだと思います。それは未亡人であり、義姉と義弟であり、11歳の年の差であり、世間の目であり、若者の可能性に対して30代半ばの自分の可能性を引き比べた結果であり、そしてそのどれでもない、すべてが積み重なった挙句に出来ていた心の枷だったのかもしれません。しかし、ともあれ高峰は、加山を拒絶してしまうのです。飛び出た加山が酔っ払って電話してきたのに答えて、自分でもこんなことになるなんて思わなかった、と泣きながら言う高峰に責は無く、それは避けがたく起こったことではあるのでしょう。しかし、決定的でもあったわけです。翌朝、窓の外のあわただしさに不安に駆られて目を走らせると、ござをかけられた死体が運ばれていきます。そのだらりとたれた手の指には、昨夜、高峰がまきつけた紙縒りが巻きついています。明日の朝までははずしては駄目、と言い渡し巻きつけたものです。高峰は、いきせきを切って、その死体のあとを追います。しかし、男四人が大急ぎで運んでいく死体は、追いかけても追いつけず、山間へと消えて行き、ついに高峰は立ち止まり、決定的に失われ、もはや埋めようの無い距離、二人の関係の決定的不可能を示す距離を、呆然と見つめるのです。それは、成瀬の距離です。

むしろ、一つ屋根の下に互いが留まれば、こうまで隔てられなかったかもしれません。しかし、それはそれで、避け得なかったのです。時代が変わり、スーパーが出来、小売店の商店街がなくなっていく時代を描いた映画です。残酷で不可逆的な変化は、男女の間だけではなく、世界のここかしこで起こっています。高峰が守ってきた空間も、結局は失われる運命だった。だから、やはり高峰と加山には、最初から可能性など無かったのでしょう。どこまでも、死や終わりや断絶に取り囲まれている、成瀬の恐ろしい世界が広がっています。高峰秀子が、乱れ髪のまま、立ち尽くし見つめる世界です。

いや、死ねない残酷さ、というのもありますけれど…。同じく加山が主演した、「乱れ雲」を思い出しています。

*1:そうした空間の演出のなかで、人間の配置や距離に対して鋭敏な成瀬は、日本家屋だと縁側から部屋にいる人々を捕らえるショットを必然的に重視するのだと思います。