アワーミュージック
BGM : Gabriel Yared「勝手に逃げろ/人生」OST
なんか、この映画は、サントラだけ抜き出して聴くと、とても不思議な感じ。ぜんぜん別物に感じられます。「ヌーヴェルヴァーグ」のサントラは、そんなことないのだけど…(本編まるまる収録だから、当然???)。
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ゴダールの映画の主人公が旅人の設定になるのは、「世界」を移動する/切断する運動において、映画=思考をなそうとするからだと思うのです。おそらくそこでは、情報の量を処理するための素早さや唐突さが重要となり、むしろスピードが「世界」を示すといえ、道化た振る舞いはそれを可能にする軽やかさと強く結びついています。ゴダール自身が映画監督役で主演した「右側に気をつけろ」がその典型ですね。今日は「アワーミュージック」を見てきたことについて書くのですが、同じくサラエヴォを舞台にした「フォーエヴァー・モーツァルト」では、ヴィッキー・メシカ演じる映画監督の唐突な姿の消しぶり(紛争地帯に向かう娘たちをおいて、メシカだけさっさと帰ってしまう)を思い出します。サラエヴォをひとつの支点として、映画と戦場、資本主義と戦場、若者たちと老人、様々な接続が行われ(闘われ)ゴダールの映画を作り上げる、そのときにそのでたらめな素早さ、運動神経が不可欠であるということです。
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さて、そういう前提をまずおいて「アワーミュージック」なのですが、これは「フォーエヴァー・モーツァルト」のでたらめさから一転して、本作では自身で映画監督を演じるゴダールがとても行儀正しく見える、そのことがとても印象に残るのでした。同じくサラエヴォという旅先に来た映画監督です。ただ、身振りはだいぶ違っている。「アワーミュージック」の映画監督は、若い生徒たちを前に、丁寧にモンタージュについて、写真を用いて説明をします。このこと一つとっても、あっけなく娘たちを置き去りにしてしまう「フォーエヴァー・モーツァルト」とはだいぶ違うように感じます。
ホークスの「ヒズ・ガール・フライデー」のケーリー・グラントとロザリンド・ラッセルの切り返しを、電話口で言い合っている二人のショットの写真を見比べながら、まったく同じ写真を見ているかのようだ、ホークスが男女の違いをわかっていなかったからだ、とゴダールは授業で言います。この違うけれど同じ、同じだけど違う写真の連続(映画)が、パレスチナへとやってきたユダヤ人たちの写真(ゴダールはそれをフィクションと呼ぶ。映画から抜き取ったものと思われる)とパレスチナを追い出されて海へと追いやられたパレスチナ人たちの写真(ドキュメントと呼ぶ)の、違うけれど同じ、同じだけど違う写真の連続に、接続されていきます。この流れなどは、とても明快で、実に教育的だと思うのですね。このモンタージュの話は、映画の冒頭の、フィクションとしての映画の(主に)戦争シーンとドキュメント・ニュースの戦争の映像を組み合わせた、一連のカットの連続にも通じていきます。映画の全体の構造が、ゴダールの映画としては比較的安定しているように思えます。「JLG/JLG」のような定住地におけるゴダールを描いた作品ですら、その身振りはどこか道化的な危うさを帯びた、安定しない存在だったのにです。果ては、いざサラエヴォを去るときにも、丁寧に別れの挨拶やねぎらいをゴダールが口にしています。その丁寧さは違和感を感じさせます。
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考えてみると「アワーミュージック」は旅人の映画ではないのかもしれません。なるほど、確かに旅をして、ゴダールはサラエヴォに来ています。しかし、それは設定においてであって、映画の中ではほとんどサラエヴォにいるだけなのです。しかも、与えられたスケジュールをこなし、おとなしく帰って行く。旅=アクシデントは起こりません。
きっと「本の出会い」というよくわからないイベントの力なのでしょう、代わりにサラエヴォには、世界中から人々が集まってきています。複数の言語も、そこで飛び交います。ネイティブ・アメリカンもいれば、スペインの作家も、パレスチナの詩人も、そしてロシア生まれでアメリカで活動する、ユダヤ系のフランス人女性・オルガ(ナード・デュー)も、やってきます。ゴダールは、世界を横断するのではなく、世界の断片を一時/一箇所に集め、そこにいようとするわけです。それが、この映画の「世界」となり、また教育的なわかりやすさにも通じているのだと思います(わかりやすさ=教育ではないし、ゴダールの映画を見ることはすべからくある意味で教育だと思いますが、この映画では、意識してわかりやすさを教育の一部として求めていると思います)。
すると、まずは何故サラエヴォだったのか、という問が生まれます。これにはオルガが応えていますが、パレスチナでもテルアビブでもないのは、「和解が可能な地が見たかった」からだそうです。サラエヴォは戦後のなかにあります。だから、そこにはあらゆるものが会合する契機がある、ということかもしれません。しかし、対話を訴えかけたフランス大使は、彼女の申し入れに結局は応えない、つまり「和解が可能」とは可能性であって、その実現ではなく、それは実際に、今だ廃墟が連なるサラエヴォの風景に明らかなのでした。爆撃で崩れ落ちた歴史的な橋を再現するプロジェクトが映画の中で紹介されますが(それも「モンタージュ」のイメージに繋がっていくのですが)、その意義はともかくとして、少なくとも今は、まだ、バラバラに崩れた岩がそこにあるだけであり、再現への道のりは遠いのです。しかし、他方で、だからこそここには、隠しようがない故に真実が語られる可能性もあるといえるかもしれません。アメリカの新聞では、パレスチナ人の側の記事は掲載され得ないというオルガは、そこに穴が開ける方法を求めていたと言えるからです。
ともあれ、一箇所に集められ、繋げられたと言っても、それはやはり「可能性」と「実現」のあいだの世界であり、つまり「煉獄」であるということかもしれません。どこまでも中間的な、解決のない世界。では、そこからどうするのか。
ところで、3つのパートに分けられた本作ですが、戦争の映像が集積された「地獄」と名付けられた最初のパート、真ん中に「煉獄」と名付けられたサラエヴォのパートがあるとして、では「天国」と名付けられたパートは、どこからはじまっているのでしょう。普通に考えれば、わざわざテロップで示しているわけですから、オルガが花の咲いた森の道を歩いているシーンからだとなります。しかし、その花々のショットは、家に帰ったゴダールの、彼が世話する庭の花々と、まるで地続きであるかのようにカメラはそれぞれをオーバーラップさせるのでした。花畑で、花の世話をしながら、オルガの死を耳にするゴダールは、どこにいたのか、ということです。あそこはあそこで、天国に近い場所だとして、ではゴダールはどのようにして死んだのか?
オルガが、ユダヤ人として世界の平和のために自爆テロを試みようとするように(彼女の爆弾は「本」だったのですが)、ゴダールもまた、サラエヴォで、映画について語るのかもしれません。その直球のわかりやすさは、継続のための身振りではなく、最後の手段に近いものではないか、と想像します。サラエヴォにおけるゴダールの万博/戦場で、私たちは、爆死しなければならなかったと思うのです。ところで、ではどこに雷管はあったのか?おそらくは、ゴダールの授業中、オルガが手にしているテロップのカード、それは「裁かるゝジャンヌ」の中の字幕なのですが、あそこにあったと思うのです。「救済とは?」「勝利とは?」「それは私の殉教です」「私は天国にまいります」。
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…女性「人道的といわれる人々は、なぜ革命を起こさないのでしょうか?」ゴダール「革命が人道的ではないからさ。彼らが作るのは図書館と…」マイヤール「墓地だ」
アンドレ・マルロー「希望」からの引用だそうです。ほんと、そうだよなぁ…。