淪落の女の日記 / 日曜の人々 / ブライアン・ウィルソン

BGM : Brian Wilson「I Just Wasn't Made for These Times」

セルフカバー集ですね。ブライアン・ウィルソンの。T9「Still I Dream of It (Original Home Demo '76)」がお気に入りです。T3には「Caroline, no」、T10「Melt Away」も好きだし、T11「'Til I Die」は言わずもがなの名曲で、T5「Love and Mercy」も泣けるし、いいアルバムだなぁ。昔みたいには歌えない。けれど、だからこそ、今歌う、ってアルバムです。

I Just Wasn't Made for These Times

I Just Wasn't Made for These Times

「ドイツ映画史縦断1919-1980」に通っています。ゲオルグ・ヴィルヘルム・パブスト「淪落の女の日記」*1(1929年)と、ビリー・ワイルダー、ロバート・シオドマーク、クルト・シオドマークが脚本を書き、エドガー・G・ウルマー、ロバート・シオドマーク、クルト・シオドマーク、フレッド・ジンネマンが監督した、超豪華だが役割分担がよくわからない「日曜の人々」(1930)を見ました。

以下、ネタばれです。

「淪落の女の日記」は、G・W・パブストの優れて端正な構図感覚(人物のフレームにおける配置の仕方)や、運命に翻弄されるティミアン(ルイーズ・ブルックス)の過剰なまでの美しさ、そして切り返しの視線劇の流麗な演出について書いていくのが、本当だと思うのですけれど、どうもいけません、私は、ティミアンと結婚の約束をし、彼女の遺産でばら色の未来を描き、これから経営する彼らの店がどうなるかの絵図を、ティミアンの娼婦仲間たちに見せていたオスドルフ伯爵(伯父に勘当されて無一文の貴族青年)が、失意のあまり唐突に窓から身を投げて自殺してしまう、そのシーンにばかり、特別にひきつけられてしまうのでした。

確かにこの映画は、視線を交し合う対象が奪い去られるときに生まれる残酷さが魅力的な作品ではあるのです。ですから、義理の妹たちが路頭で迷わぬよう、継母との確執を越えて財産放棄をしたティミアンが、愛するオスドルフの元に戻るとき、異変に気づいて目をやると、もう窓辺からオスドルフは落ちたばかりである、という残酷は、この映画全編の魅力を説明する上でも不可欠です。しかし、そうしたことではなく、絶えずどこか飄々とした、にこやかな、オスドルフの、見た目と裏腹の自殺するほどの絶望が、何より印象的だったのです。

彼は、そういえば非常に奇妙な存在です。ティミアンを彼なりに愛してはいたのでしょうが、彼女が薬剤師に孕まされたときにも彼は無力でしたし、ティミアンを女子更正院(そこは人権などまったく無視した刑務所のような場所なのですが)から救い出すのには一役買ったものの、結局彼女を娼婦に貶めるのに一役買っただけともいえそうです(一応、映画の中では、娼館でダンスを教えていたという設定になっていますが、実際には娼婦をしていたと考えるのが自然でしょう)。そしてあっけなく死ぬまで、ひとことで言えば、駄目な男であり、そうした男が、更に彼女の淪落を取り返しのつかないものにする、という言い方は可能だとして、それにしても気ままにでたらめに生きてきた男の、あの意外なまでの絶望、自殺はなんだったのか。

物語的な要請、という意味では、彼が自殺することで、彼の伯父は改心し、ティミアンを救うべく結婚、彼女の窮地を救うわけです。さらにその結果、地位と金を得たティミアンは、女子更正院に視察に行き、昔馴染みの脱走仲間と再会して、強圧的な施設の運営を糾弾し、彼女たちと同じだった私でなければ、彼女たちを救えない、と言い放つわけですから、淪落を止めたのは、結局はオスドルフの自殺だった、と言えるでしょう。しかし、彼がその選択をしたときに、そうした結果が待っていたとわかっていたわけではありません。

私は、ティミアン、つまりルイーズ・ブルックスの瞳の問題だと思っています。あのきりりとした眉の下で、それが純粋さで荒れよう怨嗟であれ、ただ強いまなざしが、端正な顔立ちの中にある。それに対して、どこかぼやけた顔つきのオスドルフは、彼女のまなざしが、彼女の行動によって精神を伴った瞬間に(財産を投げ出してでも、母親の違う妹たちを救ったときに)、その画面の外にはじき出されてしまったのかもしれません。彼に代表される弱さは、ティミアンに代表される強さの障害物でしかなかった。

ティミアンだけではなく、家政婦に手をつけ、妊娠するや即座に捨て去り、自殺に追い込みながら、なお新しい家政婦を家庭に入れ、彼女の言いなりになって不貞の子を産んだティミアンを追い出してしまう薬局経営者の父。あるいは、彼と彼の家を占拠するために、目障りなティミアンを追い出すためどんな非情も行う新しい家政婦(彼女はティミアンの子供を未亡人に預けるが、未亡人はあっけなく死なせてしまい、けろっとしている)。この映画に出てくる人々の、善し悪しではない我の強さ。その間で、無能者としてただ落下することしか出来なかったオスドルフは、印象的なのです。

ティミアンの働くキャバレーに、ティミアンを追い出した家政婦、いまや継母と、ティミアンを妊娠させて捨てた薬剤師とを伴って、父が、偶然やってくる。久しぶりの対面に、まだ互いに思いあっている父娘は近づきあおうとするのだけれども、ティミアンの前にはごった返しながら彼女に触ろうとする男たち、そして父の脇には継母と死んだ赤ん坊の父親がおり、彼らは無理やり父親の顔を背かせると、ティミアンと言葉も交わさせないまま、遠ざけ去っていくのでした。そうした絶望的な対峙に対して、オスドルフは、父親たちと入れ替わりにキャバレーに来て、一等があたるとティミアンがもらえるくじを見事に引き当てて、傷心のティミアンに、それとわからず抱きつく、そうした軽やかさで、一人あらゆる場所を繋ぎとめる役を果たすのです。

しかし、その軽やかさは、欲望の弱さであり、この欲望に誠実な強き人々のなかでは、彼の手元には最後、絶望しか札が残らないのでした。高度に達成された、端正な映画が、その強さ美しさにおいて、人生の被害者でも加害者でもないオスドルフのような、無能なだけの者を縊り殺す。そこには、映画の機能の本質的残酷さが働いているように思えます。

しかし、単にオスドルフに共感しているだけかもしれませんが(私が・笑)。

「日曜の人々」は、セミ・ドキュメンタリー風とでも言うのでしょうか、カフェの男性店員と妻帯者のタクシー運転手、モデルとその友人のレコード店女子店員の、ある日曜の、湖の岸部で笑い遊び、恋に落ちて過ごす休日の過ごし方を描いた作品です。映画の冒頭では、出演者たちは実際に、カフェの店員であり、タクシー運転手であり、モデルであり、レコード店店員であって、映画の撮影が彼らは待ちに、また元のようにかえって行った、とテロップが出ます。土曜日と月曜日の間に挟まれた日曜日が、休日という隔離された自由な輝きを帯びるのを描いている作品です。遊び笑い、楽しむ場面が、映画のほぼ全編を形作っています。それは映画という特殊な時間が、まるで日曜日のようなアジールな美しい、しかし現実の間に挟みこまれたものとしてある、ということの比喩のようです。

二枚目のカフェ店員を目当てにやってきたモデルは、親友に彼を横取りされてしまうのですけれど、そうした物語よりも、笑いさざめく4人という単位が魅力的な映画です。恋愛の三角関係をどこか曖昧にしていく4人目、妻帯者で、本当は妻とともに来る予定が、妻は寝入っていておきてこない、仕方なしに一人で来た正直二枚目とはいえないタクシー運転手が、女子たちと笑いさざめきながら一切恋愛になっていきそうにない中途半端なポジションを守り続けることで、奇妙なバランスをこの4人に与えているのです。映画の途中で、レコード店の娘とカフェの店員は、二人で走り出して(その唐突な木漏れ日の道を唐突にダッシュする男女の姿も、とても鮮やかなのですが)、二人きりになると、結ばれてしまう、もしここで男一人に女二人の3人であれば揉めそうなところですが、4人ですから(つまり、恋愛に対して他者の存在である仲間がいるので)、この映画はただただ遊び続ける4人の話になる(そういう映画として続けることが可能になる)のです。

そうした作劇の上手さを、ビリー・ワイルダーという固有名詞だけに還元するのはどうかと思いますが、ワイルダーは本作で注目を集めた、という記述も散見しますから、大きな役割を果たしていたのかもしれませんね。しかし他方で、そうした作劇の妙とは別に、水辺で、あるいは足漕ぎボートで進む湖上で、笑いさざめき、遊ぶ4人の豊かな、朗らかな運動、特にボートから半身を仰向けに湖上にのりだして水面に手を走らせるレコード店の少女の鮮やかなイメージなどは、忘れがたいものなのです。あるいは、レコード店の娘が二枚目の帽子を奪って、それを頬って遊ぶうちに木に引っ掛けてしまう、枝をゆすっても落ちない、そこで男二人が彼女を持ち上げて木にのぼらせて、帽子をとらせるまでの、どこかセクシャルな、しかし無邪気な運動ですね。そういえば、映画の冒頭のほうでは、水着に着替えるシーンもありました。お約束ですが、男性がそれを手伝う。そして水辺ではしゃぎ遊ぶ。その一連のシーンも、無邪気さとセクシャルな男女の甘い緊張感が流れるのでした(特に休憩しながら、二枚目が娘二人の両方に手枕を差し出しているシーン。モデルの娘は、男の手を握りながら目を伏せ、レコード店の娘は、腕枕で、二枚目と顔を寄せ合って談笑しているのです)。

カメラを持って街へ出よう、などというと、例えばヌーヴェル・ヴァーグとかを思い出すのかもしれませんし、シネマヴェリテなんて言葉も思い出すのかもしれません。先取りしていたわけではない、というのもそうした後年の映画の革新と、「日曜の人々」の構成的な上手さ(セミ・ドキュメンタリー風であっても、作劇的な構成はむしろ細やかに練られている)は、まったく別物とも言えるからですが、しかし、映画史を見直すに当たって、当時のドイツ映画がもっていた映画的知性が、様々な試みを行っていた(それも、安易にドイツ表現主義などという言葉に換言できない)ことを確認できるとはいえますし、映画の「複数の歴史」の存在を改めて感知するわけです。

「日曜の人々」の作劇の上手さは、逆を言えば、安定した物語の構図を維持する、ということかもしれません。もし、これが三角関係の男女三人によるヴァカンスで、しかもそれを、恋愛ではなくヴァカンスとして続けたなら、どんな映画が出来上がるのでしょう。と、わざとらしく書いてみましたが、ジャック・ロジェの「アデュー・フィリピーヌ」のことを思い出しているのです。あの危うい映画が、私はとても好きなのです。

*1:公式HP上は「倫落の女の日記」となっていますが、恐らく「淪落」が正解かと…。