下部ババリアの人間狩り[迫害] / アル中女の肖像 / YMO

BGM : YMO「公的抑圧」

公的抑圧

公的抑圧

様々な公的抑圧が存在するわけですけれど、このところのものは、かなりたちが悪くて、幸せなのだから、祝福しようよ、とにこやかにほほえみかけたりするわけです。それは、テレビのこちら側でぼーっと画面を見ている側だけの問題ではありません。周囲が幸福にならなければいけない人と決めてしまう時点で、つまり当人が自信の幸福について思考するより前にそれがあることで、不幸になる、しかもその不幸に気づけないほど不幸である人がいること。そうしたことに荷担してしまうこと。むしろ、テレビをぼーっと見てしまう加害者になってはいまいか。怖いことです。

T3「TONG POO -東風-」とかね、いまは聴きたい。

「特集 ドイツ映画史縦断1919-1980」では、悲しいことにダグラス・サークを見逃すという大失態を犯してしまったのですが、一応、通える範囲で通おうと思っていて、監督も作品名も知らなかったのですが、「下部ババリアの人間狩り[迫害] 」という作品を見てきたのでした。1969年の作品で、監督はペーター・フライシュマン。ドイツの農村地帯の保守的な村に久しぶりに戻ってきた青年が、ゲイで犯罪者であるという噂を立てられ、陰湿ないじめを村中から受ける、という話です。教会に集う、「まともな」人々である村人たちは、異分子としての青年を、下世話な好奇心もたっぷり盛り込んで攻撃し続ける、その結果、追いつめられた青年は…という話です。

以下、ネタばれです。

豚を屠殺し、解体し、脳みそを茹でて食べる一方で、ソーセージ作りに励む、そうした作業を、子どもも含めて皆で共同してやる。屠殺、というイメージが、その後の、青年が、彼の子を妊娠している少女(誰とでも寝るようなタイプだが、青年に恋していて、彼が村人の迫害に耐えられず逃げようとすると、大声を上げながらすがりつく)を殺してしまうシーン、道路の脇の小川で、まるで屠殺される豚のように叫びながら殺されるシーンと呼応関係を結ぶのは、いささか「わかりやすい」とは思いますし、それ以外の部分も、必ずしも農村にカメラを向けるのではなく、農村のイメージにカメラを向けているというところに、うさんくささが漂うのですが、しかし、なお屠殺のシーンはじめ、多くのショットが力を帯びるのは、俳優たちの身体や相貌や、様々な動きの中の粗野な感触、現実の労働(思い穀物入りの麻袋を担いで運ぶとか)が、やわらげられることなく、これでもかこれでもかと連続して提示されるからですね。

また、そうした映像の中で、主人公の青年が、あまりに力なく迫害されることも重要です。これがアメリカで作られる映画であれば「わらの犬」になると思うのですね。ダスティン・ホフマンのように、反撃を開始する。けれど、「下部ババリア…」では、反撃など思いもよらないのです。殺人を犯して山に逃げ込むと、山狩りに来た村人の前で、あっさり捕まってしまうしかできない。その、力のなさによって、この映画は、絶望的な田舎の村の中の「健全な」抑圧の仕組みを浮かび上がらせるのです。映画の最後は、村のパーティです。そこでは、誰一人、かげりを帯びていません。彼らは、自分たちが青年を追いつめた可能性など、考えてもいない、なぜなら反撃されず、青年もまた、おとなしく逮捕されるしかなかったからです。

主人公のマーティン・シュペアが、原作戯曲の作者でもあるみたいですね。へー。

わらの犬 [DVD]

わらの犬 [DVD]

「アル中女の肖像」も見ました。1979年の作品で、監督はウルリケ・オッティンガー。やはり、まったく知らない監督です。
主演のタベア・ブルーメンシャインは、ちょっと今の時代には合っていない化粧だけど、すごく美しいです。シーンごとに変わるドレスも、みなすばらしい。バブルです。そして大きくあいた背中がとても美しい。アル中の女が、ひたすらベルリンで酒を飲みながら徘徊し続ける、というだけの映画です。アルコール版「最後の晩餐」という感じでもあるかも…耐えず酔うことで、社会からドロップアウトしたものの視点から見出すベルリンは、無目的な迷路のようで、たとえば冒頭近くのカジノのシーンでは、彼女は酔いたいだけなので、遊びもせず酒を飲むだけなのですが、金に興味のないものが見るカジノは、ひたすら無意味な応酬が単調に繰り返されるだけの世界となる。そうした空虚さを、ずっと捉え続けます(同じ、迷宮的な手応えのない世界の裏側を描くのでも、その世界の裏側自体が生々しく息づくデヴィッド・リンチのイメージとも異なり、ただただ薄っぺらなのです)。

それが、すごく面白い試みか、といわれると、少し距離を置きはするのですが、ヴェンダースが「映画的に」(運動や時間の問題として)さまよって見せたベルリンの街を、オッティンガーは書き割りの背景のようにぺらぺらなものとしてさまよってみせる(持続性の弱い断片の連続、非常に単調な繰り返しを、ブルーメンシャインの七変化的な美しいドレスチェンジだけで繋げていく)。そこに、「さまよう」という共通の必然性(世界の手応えのなさ)を見出すことも出来ますが、他方で、現実の問題をスタイルの薄っぺらさに託して描くオッティンガーのリアルと、映画であることで世界と関係を取り結ぶことを諦めないヴェンダースのリアルには、大きな差があるとも言えます。これは、一概にオッティンガーを否定するのではありません。むしろ、映画的ではないところにあるリアルもまた、今日、映画がオミットしてはならないリアルさなのではないか、とすら感じています。