ドミノ / 結界師 / フィッシュマンズ「空中キャンプ」

BGM : フィッシュマンズ「空中キャンプ」

空中キャンプ

空中キャンプ

このアルバムを最初に聴いたときには、フィッシュマンズの変化に驚いたのを覚えています。T4「In The Flight」T5「MAGIC LOVE」とか好きだなぁ。

少年サンデーで連載されている「結界師」という漫画が面白いです。非常に、丁寧に主人公の少年の成長を描いているなぁと好感を持って、ずっと読んでいたのですが、このところ、ぐんぐん盛り上げてきています。迷っては見せるけれど、結局は直線的に成長していく、いわゆる少年漫画の典型的な主人公の成長ではなく、むしろ停滞や無力さから学び、少しずつ成長していく、本当の意味での健全さがある主人公で…。霊的に強い場所を守護する役目を帯びた少年が、同業の憧れの少女とともに、襲いかかってくるあやかしを結界の術で倒していく、という設定だけを書くと、良くある話と思われかねないですけれど。登場人物の殺し方なども、非常に上手いです。より強い敵を倒していくなかで、バブル化していく少年漫画的な法則は、さすがに多くの少年漫画がもう回避できてはいるのですが、その背後で、自分の味方は殺せない、話が膨らむほど仲間は増えて身動きが取れなくなる、というバブルは、なかなか食い破ることができないし、また、ではどうせ殺すなら、意味のある死を、ということになって、死のバリエーションの問題になってしまったりもする。そこを田辺イエロウという作者は、死もあっけなく起こるのだ、と、ちゃんと描こうとしているのです。まあ、もちろん一定のカタルシスはあるのですけれど、しかし敢えて、仲間の死すら「日常」のなかに配そうとし、かつ成功もしているのです。いま、10巻くらいまで出ているのかな???

結界師 (1) (少年サンデーコミックス)

結界師 (1) (少年サンデーコミックス)

トニー・スコットの新作「ドミノ」は、私の行ったシネコンでは公開2週目ですでに全日興行を終了していて、モーニング&レイト上映というわびしい感じで、よっぽどヒットしていないと思われるのでした。実際、私はレイトの回で見たのですが、客もまばらで、なんとなく男性側が「私の頭の中の消しゴム」(大ヒット中らしい)はいやだと拒否したカップルが流れてきた、という感じで(偏見)、しかも見終わったあと、間違っても「面白かったね」とカップルの会話が盛り上がったりはせず、「やっぱり『私の…』が見たかったなぁ」と彼女に彼氏がぽつりと言われてしまいそうな感じで(どんどん偏見)、映画を見終わって場内が明るくなる頃には、客のほとんどはエンドクレジットの間にそそくさと帰ってしまっていて、寒々とした感じだったのですけれど、私は、かなり興奮して見ていたのでした。面白いです、これ。映画として、かなり変わったことをやっています。

映画は「実話をベースにしている」と冒頭のテロップで示されます。ただし、あえてそのあとに「Sort of…(ほとんどは…)」と断るくらいですから、その時点で、映画がどれくらい事実に基づいているかなどは、そう重要ではなくなります。主人公のドミノ(キーラ・ナイトレイ)が、「影なき狙撃者」のローレンス・ハーヴェイとロンドンで活躍するトップ・モデルの娘として生まれ、裕福な環境で育ち、モデルなどの経歴も持つ裕福な家庭の令嬢なはずなのに、本当に刺激的な生を求めてバウンティ・ハンター(賞金稼ぎ)の道を選ぶ、という話です(これは事実)。しかし、実はこの映画、ドミノが、セレブらしい生き方は自分にあわないと思い極めるまでの回想シーンは、ほんの数分で、実に短い。トニー・スコットは、そうした背景など、それこそ「退屈」だと考えたのでしょう。ざっくりと、ドミノのナレーションとわずかな回想シーンだけで通り過ぎてしまいます。更に言うと、ドミノがバウンティ・ハンターとして最初にエドミッキー・ローク)やチョコ(エドガー・ラミレス…脱いだらとてもセクシーです)に出会い、バウンティ・ハンターの初仕事をこなす回想シーンや、彼女がナンバー1バウンティ・ハンターの賞をもらうシーンなども、実に駆け足です。この映画では、過去に何があったかではなくて、いま、目の前の状況をどう生きるかが重要だ、とまずは言えるでしょう。それが、バウンティ・ハンターとしての、運動神経と知恵の見せ所であるわけですしね。

しかし、その運動神経は、どこかでギャンブル(放り上げたコインの裏表で生き死にが決まるような)です。「死」の仮定が絶えずついて回ります。初仕事で、多くの銃口を突きつけられたドミノが、自分たちは警察ではない、情報をくれるなら下着で銃口を向けてきたボスのひざの上で踊ってもいい、と約束するシーンを思い出します。映画の中では、まず銃撃が始まって、全滅するシーンが描かれます。そしてその映像が逆戻りして、今度は生き残ったパターンが描かれるのです。その潜在的な「死」の可能性。別段、これが特別変わった演出だと思うわけではありません。むしろ、他でも見たように思うのですが、ポイントは、その分岐の上に絶えず身を置くことが、ドミノの欲望であったろう、生であったろうということです。一種のパラノイアですね。

以下、ネタばれです。

では、「死」の仮定が絶えずつきまとう、目の前に広がっている、いま、判断し生きていかなければいけない危うい状況とは、この映画の場合何かというと、ラスベガスのカジノの金、1000万ドルの強奪犯を追うバウンティ・ハンターたちが、実はその金を狙った身内のクライアントに欺かれていて、偽の犯人を捕まえる羽目になり、その偽の犯人のなかにマフィアの息子が混じっていたために話が混乱、カジノを経営するマフィアと、息子を殺されたマフィア(しかしそれはFBIの偽情報で、実は生きていた)と、更にカジノとマフィアの関係を探るFBIの三つ巴に巻き込まれて…という大ピンチなのです。普通に時系列どおりに描いても複雑になる話を、トニー・スコットは、ドミノの回想形式で、しかも、いつの時点での回想なのかよくわからない形で、時系列をかなり複雑に入れ替えて描き、どのエピソードがどことつながるのかなかなか明瞭にならないようにしています。終盤、ようやく物語がつながりだすまでは、むしろその混乱を見続ける、とすら言えそうです。しかし、映画の中のドミノ他賞金稼ぎたちも、事情が飲み込めぬまま右往左往しているわけで、むしろその混乱それ自体が、バウンティ・ハンターとしてのドミノの混乱に近しいかもしれませんし、また映画とは混乱の構成物であるという本質へのアプローチかもしれません。正しくは、その二つのリンクのうえに、トニー・スコットはこの映画を作り上げているのだと思います。

この映画はそのほぼすべてが情報であり、記憶であると事後的にわかります。その事後的な了解は、混乱の中を綱渡りでぎりぎりに生きているドミノや仲間たちの生とは真逆のイメージを、不意に提示しています。ドミノと、ドミノの仲間たち(そこには愛した男もいれば、父とも師匠とも慕った男もいた)の苛烈な生は、実は回想の時点(ドミノとルーシー・リュー演じるFBI分析官の対話シーン)では、ドミノの仲間はすでに死んでいる、つまり、その記憶は単に回想ではなく、失われたものへの回想であり、すでに終わってしまったものへの回想であるとわかるのです。もちろん、FBIへの証言次第で彼女が犯罪者となるかどうかの分かれ目ではあるわけです。その意味では現在の問題でもあります。しかし、それは映画のほぼ全体を貫いている混乱した状況とは別種の新しい問題なのです。

混乱=生であること。しかし、映画のラストにおいて、その内容物(得がたい仲間・恋人)をドミノがすべて失っているとわかる。そして、これは偶然なのですが、現実のドミノ・ハーヴェイの死(映画のラストに、チャーミングな笑顔で現れる短髪黒髪の女性がドミノ本人なのですが)、35歳の若さで不審死を遂げているのでした(一説ではドラッグでの死らしいです)。こうしてこの映画は、現在進行形の映画でありながら、すべてがすっかり終わってしまったような、その存在自体があやふやなようなものとなるわけです。

このことは、別の視点からも指摘できます。まず、映画の主たる事件自体が、恐らくはフィクションであること。こんな派手な事件にドミノ・ハーヴェイが本当にかかわっていて、ラスベガスのタワーがひとつ、本当に吹っ飛んでいたならば、映画になる前にニュースとして、私たちだって知っていそうなものです。しかし、もっと重要なのは、この映画のすべてが、ドミノの回想であり、関係者がほとんど死んでいるため、もしかしたらその中に嘘があるかもしれない、という可能性です。彼女はFBIにつかまるという危機を回避するために、すべて自分のせいではないと証言したのではないか。それこそ死人にくちなしとして。例えば、本来ボスであるはずのエドミッキー・ローク)の中盤から終盤での影の薄さを思い出します。なぜ、すべてがドミノ中心に話が運ぶのか。なぜクライアントは、エドではなくドミノに連絡をするのか。本当に1000万ドルは吹き飛んだのか?(誰がそれを確認できるのか)そうした仮定を、可能性の領域に残しながら、この映画=フィクションは構築されているのです。

この映画は、荒野の一軒家の撃ち合いから始まらなければならず、また荒野には、トム・ウェイツまで現れて、神託を下さなければならず、つまりは、まぼろしとして蘇った西部劇の一形態なのでしょう。そして同時に、その一軒家の中では、タイミングよく「影なき狙撃者」がテレビで流れていなければならない。それが、この、現在の混乱=生と回想された混乱=死とを同時に最終的に結び合わせる曖昧な、浮遊した映画の、最初の地点です。ここで、生き延びている精神、「映画」とは何か、と考えます。もう終わってしまっている/今を生きる。その矛盾をひとつにするのが、パラノイアだといえましょう。つまりドミノ・ハーヴェイは、ローレンス・ハーヴェイの娘ではなく、「影なき狙撃者」のローレンス・ハーヴェイの娘なのです。だから、エドはドミノに、「影なき狙撃者」の画面を見ながら、あれがお前の父親か、と聞くのです。その正しさにおいて、トニー・スコットはこの厄介な映画を成立させています。

…やはり、ヴィム・ヴェンダースの「ランド・オブ・プレンティ」と「ドミノ」は、並べてみるべき映画だと改めて感じますね。