おれはキャプテン / 昼と夜のような黒と白 / ベルリン・シャーミッソー広場 / Cassiber

BGM : Cassiber「Perfect World」

カシーバーです。好意的胸焼け体験です。

Perfect Worlds

Perfect Worlds

コージィ城倉の「おれはキャプテン」が面白いです。ちばあきおの傑作「キャプテン」「プレイボール」のパロディと、まずは位置づけられるのですが、これがなかなか一筋縄ではいかない。ちばあきおの世界にあったような、野球部の自律的な永久運動の美しさに対する明確な傾倒が見いだせる一方で、そうした自律的な運動は普通では不可能だという意識もあるのです。たとえば、ちばあきおは、その作中で露骨なまでに監督の存在を排除し(文字通り、その存在を元から描かない)、代わりに個人に還元し得ないキャプテンという中心(「キャプテン」では連載中4人もキャプテンが入れ替わり、その代ごとに主人公が変わる)が、チームという全体の永久運動(強敵現る・練習・強くなる・勝つ・次の強敵現れる・練習…を繰り返す:たえず0地点に戻り繰り返す運動。隅田川沿いの海面0メートル地帯の高校であるという設定は、すごく重要です)を支えています。これに対して、コージィ城倉は、大人を排除することで成立する純粋な美しさではなく、むしろ大人の介入に負けないだけの悪知恵をキャプテンに与え、その悪知恵によって新しい美しい運動を可能にしていくのでした。キャプテンは、その悪知恵で周囲の大人を様々に巻き込みながら、野球部を「支配」していきます。選手たちは最初、それに反発するのですが、その支配は、しかし他方で、ちばあきお的なチームの全体運動にだけ捧げられており、野球にどんどん上手くなる、敵に勝つ、という喜びのため、チームは結果的に一丸になっていくのでした。

コージィ城倉といえば「砂漠の野球部」という、「おれはキャプテン」とはまた違うタイプの野球漫画(これは「ドカベン」にたいするパロディといえるかもしれない)を描いています。2作を並べて読むのも面白いですね。

砂漠の野球部 第1巻 (少年サンデーコミックス)

砂漠の野球部 第1巻 (少年サンデーコミックス)

「特集 ドイツ映画史縦断1919-1980」の締めくくりとして「昼と夜のような黒と白」(1978年/ウォルフガング・ペーターゼン監督)と「ベルリン・シャーミッソー広場」(1980年/ルドルフ・トーメ監督)を見てきたのでした。ニュアンスはだいぶ異なりますが、2作とも面白い映画でした。

以下、かなり致命的なネタばれです。

「昼と夜のような黒と白」は、ブルーノ・ガンツ演じるチェス狂の男が、子どもの頃に封じた欲望をどうしても抑えられなくなり、仕事も辞め、チェスの道を歩み始めて、次第に人生を狂わせていくという話です。ある強烈な欲望(その正誤ではなく、強さにおいて)や避けられない不可逆的な状況が、周囲のすべてを次第に破壊していく過程を丁寧に描く、その苦々しい重さは、なるほどウォルフガング・ペーターゼン(「Uボート」「アウトブレイク」「パーフェクトストーム」「トロイ」)の映画です。チェスの試合に勝利するため、集中力を高めるために、毒の入ったガラス玉をずっと手に取り続け、見つめるブルーノ・ガンツの狂気(負けたらそれを飲む気だったのだろう)は、彼に宿敵を破らせるのですけれど、チェスは金のためといいながらも、その強さはガンツと拮抗する宿敵とのリターンマッチには、彼はすっかり狂気の度合いを進めており、チェスではなく爆弾で、殺し合い=チェスの決着をつけようとすらするのでした。

トロイ [DVD]

トロイ [DVD]

ブルーノ・ガンツの神経質なまなざしが、次第に狂気を帯びてくる、けれどとても静かにおかしくなっているので、画面としてはとても端正であり、それだけに、奇行(妻が毒殺をしようとしていると思いこみ、懐からビニールをだし、おかずをそれに詰めると、2日前からサンプルをとっておいたビニールもジャケットのポケットから取り出す、そのシーンの気持ち悪さとか)が奇妙に痛々しく重いのです。神経に触るというか。

「ベルリン・シャーミッソー広場」は、初めてのルドルフ・トーメ体験でした。40代の建築士と、その建築士が進める旧市街の再開発計画に反対するグループの一人、20代の女子学生が、出会い、立場も考え方も趣味も異なるのに、強く惹かれあい、愛し合うようになっていくのを描く恋愛劇です。最初は、物語の展開の遅い、かったるい映画のように思えたのでした。フェイドアウトの多様も全体にスピード感を感じさせない理由だと思います。しかし、続けてみていくうちに、この映画が狙っているもの、一組の男女が出会い、その距離を詰めていく、しかし距離を詰めながらも、絶えずある種の距離はあり続ける、そんな恋愛の甘く美しい側面と痛い側面の同居する距離こそを、追いかけた映画だと言うことが見えてきます。すると、ベルリンという都市のなかで、偶然知り合った男女のその微妙な距離の豊かさが見えてきます。たとえば、印象的なのは、ピアノを弾きながら男が歌を歌うシーン。女は、それをにこやかに笑みを浮かべながら聴いているのです。男は、彼女が部屋に入ってくると、ますます熱心に歌う。しかし、その趣味は、80年代の20代の女子学生の趣味と、おそらく異なってもいるでしょう。部屋のソファーと、ピアノとの微妙な距離、あるいは歩み寄っても彼の脇までは行かないこと、そしてこの歌いまくるシーンが1曲ではなく、演奏の中で曲を買えていくという形で、1曲丸まるではないとはいえ、2,3曲歌われる、そのシーンの長さが、この2者の距離の微妙さを現しています。微妙さ、という言い方をしたのは、決してネガティブにだけ規定は出来ないからです。彼女は、歌ってくれること自体は喜んでいたのかも。ただ、そこには、共通項も見出すことが出来ないのです。そのことは別のシーン、彼女が彼を誘って「セリーヌとジュリーは舟でゆく」*1を見に行くと、彼はぐーぐー寝ており、彼女は涙しながら、湖を行く船を見つめるシーンを併置してみるとよりわかるかもしれません。もちろん、市の思惑は関係ないといいながら、市の担当者とも裏で手を握ることくらいはいとわない再開発担当の建築士と、旧市街開発反対の純粋で理想主義的な運動家という時点で、この男女の間の相互理解は、ちょっと難しいものでもあるわけですけれど。

監督自身の言葉によれば「イタリア旅行」に触発された作品とのことで、実際に、この映画の男女はイタリアへヴァカンスに行きもするのでした。しかし、その旅行は、いわば「イタリア旅行」への縁戚関係の表明に過ぎず、むしろベルリンにおける、そうした男女の微妙な距離の連続こそが、映画を作っていくことに、トーメにとっての「イタリア旅行」があったのだと思います。

イタリア旅行 (トールケース) [DVD]

イタリア旅行 (トールケース) [DVD]

夜、彼女に会いたくなり、車で彼女の家の前まで来て、その車で朝まで彼女の目覚めを待ってしまうような、40代にもなった男の愚かしさ。その走る車が埋めていく距離は、ひとつ間違えれば、嫌悪感をもって迎えられかねないものです。しかし、どこか共犯的に恋愛は進むもので、その危うさを受け入れ、むしろそれによって距離を縮めることが、恋愛の始まりになります。車に気づいた女は、彼のキスを受け入れ、彼の差し出す朝食とともに、部屋に招き入れるわけですから。そして、朝食をベッドでとろうと、誘うわけですから。台所の狭い場所で身体が近づくこと、ベッドの上でトレーを挟んで横たわり、一口手をつけたところで、見つめ合ったまま、トレーをどかすことにすること、たとえば、そうした繰り返しによって、恋愛は甘い興奮を帯びながら、男女の距離が縮まることに象徴されていくのです。

しかし、だからこそ時折示される別種の距離、海に向かって泳いで区女が、躊躇無く海へと突き進んでいくのに、後から追いかけて走る男が、慌てて胸や身体に水を掛け、冷たい水になれてからと思う、その大人の分別なのか、ともあれ、何かの「遅さ」が、意外なほど、海の上での距離となってしまう瞬間であるとか、または映画のラスト、去っていく男の車と、慌てて後を追いかける女の車のあいだの、見失ってはいないけれども近いとも言えない距離、それらが、距離の微妙さを、この映画に与えるのでした。まだ、別れると言うところまでこの二人はいっていません。しかし、趣味も年齢も立場も違う2人は、どこまで続けることが可能なのでしょう。もしかしたら単なる予感で終わり、続くことだってあるかもしれないですね。映画は、恋愛の関係がどうなったのかを示さないまま終わるのです。あるいは、どうなるのであれ、恋愛は時の中で変質するのだから、物語の終わりに愛し合っていたから、ハッピーエンドというのも幻想であり、むしろどこまでも中途半端に終える正しさもある、というべきかもしれません。

ただ、どうであれ男女の距離は、決して安定した距離ではなく、むしろ絶えず、複数の意味で微妙な危うさを抱え込んでいたとは思うのでした。それを、これほど丁寧に、描いている映画を見た経験は、ちょっと思い当たりません。やや引き気味のロングショットの多用は、そうした演出意図において必然の選択ですが、どこか黒沢清を思い起こさせるところもありました。長回しは決して多くないのですが、恋愛劇なのに、切り返しに偏らないとは言えると思います。

…と、そんなところなのですけれど、まあ、こういう映画を見ると、我と我が身の恋愛のことも考えてしまいますね(笑)。いや、恋愛は、いいものです(笑)。

*1:未DVD化!!「北の橋」ともども是非DVD化を!!