TAKESHIS'

北野武監督の最新作「TAKESHIS'」を見ました。

映画の中で、銃撃があり、人が死ぬシーン。銃を手に持った人間がいて、空砲が撃たれ、ついで撃たれた側の俳優の弾着が破裂し、血糊が服を染め、死んだことになるわけです。銃弾は目に見えません。見えないから、それは実際には存在しなくても、映画としては演出できる…なんていうのは当たり前な話です。

銃で撃つ。殺す。それは、欲望のひとつだとして、北野武の映画で、実際に欲望が行われ、殺人が行われたとしても、もちろん実際の俳優が死んでいるわけではない。そう気づいてしまう(あるいは気づいている)ことも、映画に内包された前提で、それが前提でなければ、私たちは映画を見て人が死ぬたびに、警察に行って殺人を目撃したと言うか言わないか、悩まないといけなくなるわけです。

これも当たり前。当たり前のことを何で書いているかというと、その自覚のあとに、では何を撃つのか、それでもなお撃つのか、ということが問として出てくるからです。北野武は、それでも撃つべきものを撃ち続ける、と応えるわけですが、とはいえ、撃ったところで「本当には死んでいない」のですから、シャツを血に染めた寺島進は、なんどでも現れます。

ただ、ではただの遊技かというと、どうやらそうではないらしく、死は死として死なれ(たとえば、撃たれた直後に平気で歩き出す、ということはない)、ただそれがすぐに、無効化されているだけなのです。つまり一度は(フィクションとして)死ぬ。そして現実には死んでいないので、甦る。思うに「HANA-BI」のような死生観を前面に出した作品の方が、戯れとしては軽やかであって、「TAKESHIS'」は、死んだのに、誰も彼もがのこのこと蘇り、しかしまた殺され…を繰り返すのは、一種の徒労感と、徒労感を覚えながらもそれをやり続ける、つまり現実を強く感じさせるものです。「生活」という言葉が頭をよぎります。

そこで、もう一つの問、何を撃つのか、何を殺すのか、という問題が出てきます。「生活」の中で繰り返し殺されるべきは誰か。ここに、誰も彼もが一人二役で登場するこの映画の必然性があります。単純なことを、徹底する、空恐ろしい継続(やはり「生活」か?)がこの映画です。もちろん、映画の中で登場する、スタートしての北野武も、コンビニ店員としての北野武も、どちらもフィクションにすぎない、という点では、その二人を演出する監督という第三の北野武も存在しています。その三者が、互いに撃ち合うのが映画監督の「生活」であり、ならば映画を見る観客は、こうした映画を前にしたときに、撃つ・撃たれる・見るという問題と、どう向き合うのか、ということになるのでしょう。

従って、この映画は、映画を「生活」とする人間に向いています。「映画」がスペシャルなイベントである人間にとっては、この映画は、意味不明なへんてこなものに過ぎないでしょう。私の勝手なイメージでは、年に最低でも50本は映画を見ないと、「TAKESHIS'」に撃たれることは難しいと思います。