大洋レコード / Seis Luces / アボリファズル・ジャリリ

先日、神楽坂をうろうろしていて「大洋レコード」という輸入CDショップを発見しました。

ブラジル、アルゼンチン、フランス、スペインからの輸入CD店、とのこと。その他に、なぜかラジオキットと能面も販売しています。店内にはいると、さっと緑茶が供されました。それだけで、好感度アップ、店の雰囲気もとても良かったのですが、当然ですけれど、その小さいスペースでセレクトされている音楽がどうかってところが勝負所。で、よいのですよ、これが。あまり時間がなかったので、ゆっくり試聴できなかったのですが、オススメを3枚ほど購入、家で聴いてみると、なるほど、よくぞプッシュしてくれましたって感じです。

いまBGMにしているのは、Seis Luces(セイス・ルセス)という未知のミュージシャンの「TANGO BIZARRO BIZARRE TANGO」。タンゴ+エレクトロで、ブエノス・アイレスでは「タンゴ・ジョーベン」というらしい。サンプリング、エレクトロ・ビートとともに、生演奏が。おお、気持ち良いー。大洋レコードは、輸入盤に、かなり長文の解説シートをつけていて、とても読み応えがある、説得力のある解説になっています。もちろん、こうした店員なり店主なりの心意気に支えられた、信用に足りるCDショップは他にも幾らもあるでしょうし、ここだけ変にフィーチャーするのは違うのかもしれませんが、なにか、ツボにはまるものがあったんですよ。おそらく、それは距離感だと思います。アルゼンチン・ブラジル・スペイン・フランスという地域のセレクトの仕方とか。そういう限定を逆手にとった、音楽シーンからの距離の置き方が、ある意味ではこれまで見落としがちだった隙間をすくい取る契機を生むだろうし、また、別の音楽感を、そっと運んで来るようにも思えたのです。

そんなわけで、興味を持たれた方は、是非、足を運ばれてみては。飯田橋/神楽坂は、東京日仏学院もあるし、美味しい御飯屋さんもたくさんあるし、デートにオススメなんですよ。希望がもしあれば、オススメデートコースとか、書きますよ(笑)。

さて、昨日で東京FILMeXが終了しました。ディレクターの林さんが、来年のFILMeXでまた逢いましょう、と高らかに最後の挨拶をされているのが印象的でした。第何回の時かは忘れましたが、以前、同じ林さんの、映画祭最後の挨拶で、FILMeXの存続を危ぶむような発言をされたように記憶しています。それは、FILMeXだけの問題ではなく、日本のオフシアターの状況や、ミニシアターの状況ともリンクしながら、日本における文化的な貧しさを痛烈に思い返される発言でした。実際、FILMeXのプログラムは、とても素晴らしいのです。しかし、第6回まで積み重ねてきた今日ですら、この映画祭は、どれだけちゃんと認識され、評価されているのか、と、どうしても思ってしまいます。

信頼に足りる映画祭が、身近に開催されること。どの作品を見ても(まったく未知の監督の作品であれ)、一定以上のクオリティを保っていること。それは、私にはとても貴重なことに思えます。まあ、でも、実際に映画祭でまとめて映画を見るといった経験を経ないと、その貴重さはわかりづらいのかもしれません。今年いけなかった方は、是非来年、この映画祭に通ってみて欲しいなぁと思います。そうすれば、そこにある映画を巡る熱のようなものが、ちゃんと伝わると思うのですよね。いや、青臭いことを言うようですが。

映画祭の最後を飾ったのは、アボルファズル・ジャリリ監督の「フル・オア・エンプティ」でした。教師志望の青年が、田舎の村から町へやってくる、教育委員の注文をいちいち聞きながら、どうにか教員になろうとするが、うまく行かない。そんななか、偶然知り合った少女に恋をするのですが、その理容師の兄に猛反対され、友情を育もうと尋ねていくたびに殴り倒されてしまう。他方、食べていかないといけないので、段ボールを家畜に食わせて飢えをしのがせる珍妙な仕事をしたり、ビリヤード場の用心棒をやったり(ぬんちゃくを不慣れな感じで振り回しながら用心棒のレッスンをするところがおかしい)、ペットボトルに水を詰めて、ミネラルウォーターだと偽って売る商売をしたりするのですが、どれもいまいちうまく行かない。果たして、青年と少女の中は成就するのか…という話です。

以下、ネタばれです。

ジャリリというと、私のイメージでは「七本のキャンドル」であり「かさぶた」であり、つまり貧しさに向けた視線のイメージがまずあって、次に「ダンス・オブ・ダスト」的な、貧しさに私的な美しさを付与するような欲望の人、というイメージがあります。これはある意味で「フル・オア・エンプティ」にも踏襲されるのですが、貧しさや現実を、コミカルに切り取るという方法だけみれば、これまでのジャリリとは異なるとも言えそうです。ただ、コミカルであっても、現実のやっかいさのなかで「歩いていかなければいけない」こと自体は、変わらない。コメディを作っていても、物語的な整合性の遭う、心地よいところで、終わらせることが出来ず、故郷(過去)も、単にどう食べていくか、なんの仕事をするかといった基本的な生活も含めた未来も、どこか曖昧であやふやな主人公を、海の中へとざぶんと突き落としてしまうのでした。

その曖昧なラストに向かう契機のひとつが、やはり彼がはじめた理容室が、予想外の繁盛をし、海辺の大学に来ている「よそ者」のインテリたちを顧客にすることで、突然貧しい地区から連れ出され、インターネットカフェで女の子たちとチャットをする楽しさを教えられたりするシーンでしょう。唐突に近代的な建物の内部が現れる、それは貧富の差の問題の提示と言うよりは、貧しい青年の生活と地続きの場所に、正反対の場所を併置することでおこる揺らぎこそ狙われているように思います。そうした世界の広がりがあるから、青年の物語は、小さな村の、小さな恋の物語として完結できないのです。また、青年は、軽率さと素朴さが入り交じった古い因習への抵抗感があって、それを表明することで大騒ぎを起こしたりもしてしまいます(拡声器で「女性よ立ち上がれ!」みたいなことを訴えたりする。そのせいで、彼だけではなく、彼をアルカイダと疑ってつけ回していたが、後に同姓同名の別人だとわかって詫びた警察官までが、その拡声器を貸し出したことで逮捕されてしまう)。これがハリウッド映画ならば、誰かが改心したり、少なくともヒロインの心にはその抵抗が届いたりしそうなものです。ところが、それはイランの現実ではないのでしょう、何もかもうまくは行かないのです。もちろん、青年の、持ち前の的はずれな行動力のせいでもあるのですが。

ジャリリ監督自身が、上映後のティーチ・インで語っていたこと…恋をすると、誰も彼もが、その恋しい人の顔に見えてくる…というのは、この映画の中で、主人公の心惹かれる女性が、すべて同一の少女によって演じられていることを指しています。それもまた、青年の世界の枠組みを、危うくする要素のひとつですね。恋に落ちたら、その恋しい少女の面影が、世界に偏在してしまう、ならば、この世界は、どうすればとりとめがない状態から回復できるというのか。恋が成就すればよいのか。しかし、恋なんて、成就したりしなかったりするわけですから、やはり世界は危ういままなのだと思うのでした。