La Carrau / 構造計算偽装事件 / フリーゾーン

BGMは、昨日のブログで書いた大洋レコードシリーズ第2弾で、La Carrauの「Qin Bori Bori」を聴いています。2ndアルバムとのこと。ガールズ・ポップ・無国籍(あるいはミックス)・トラッド・ミュージックって感じでしょうか。世界のあっちこっちミュージックを冒険する女の子たち。ブレイブコンボとか思い出させますね。楽しいです。

構造計算偽装事件は、国会での参考人質疑が行われ、いっそう深刻な実態を明らかにしてきましたね。構造計算を行った「姉歯建築士」個人の問題に無理矢理おしつけようにもおしつけきれない、という状況下で、建築主・確認検査機関・下請け建設会社の泥仕合が始まった感があります。この件で、いろいろネット上を検索してみて、一級建築士・堀清孝氏の経営する個人会社のHPに行き当たりました。建築主のためのサポート業務を生業としている方で、これまでこの問題について目にしてきた文章のなかでは、ずば抜けてまとまっているように思えました。また、今回の問題が噴出してから、何かを書いているのではなく、一定期間、今回の問題に通じる数多くの指摘を行ってきた上で、今回の件について触れているから、説得力があるのだと思います。

私は、この問題から「小さい政府」を目指すという国策の問題も、あわせて考えるべきだろうと感じています。確認検査機関が民間に開放されたのは5年ほど前のことのようです。しかし、利益追求型の民間企業が、利害関係の中で、第三者的な厳しい審査をするわけがないことは自明の理なのでした。より審査の緩いところに発注したくなるのが、建築主であり、また確認検査機関が利益追求するためには多く発注を貰わなければならない、すると、建築主とは仲良くしなくてはならない、ここに、寄っかかりあう構造が簡単に出来上がります。堀氏のコラムによると、民間開放する前のいわゆるお役所仕事の、遅く、重箱の隅を突く、確認検査であれば、今回のような問題は、少なくとも都市部では起こらなかったろう、と書かれています。つまり、その分析を信じるならば、「民間に出来ることは民間に」やらせた結果、民間の会社にとって大切なのは利益追求ですから、肝心な建築物に住む人間の生命や財産を守ることが損なわれていったわけです。

まあ、当たり前なのですが、政府は、(国民の生命と財産を守るための)最低限必要なインフラをもたなければならない。何もかも民間にやらせればいいわけではないのです。その「最低限」の基準がどこなのか、郵政民営化の結果を待つ前に、まずはこの構造計算偽装事件から考えてみてはどうか、と思うのでした。

いまは、社長のキャラクターのせいもあって、ヒューザーが一番やり玉に挙がっている感触がありますが、マスメディアも、面白そうなキャラクターに飛びつくのではなく、もう少し違う視点が求められているように思います。たとえば、ヒューザー同様に問題のある不動産を建築した建築主のシノケンは、そのHPを見ると、今回の問題を、完全にIR問題として捉えていることがわかります。

トップページを見てください。どこにも、いま、その建築物に住んでいる方々へのお詫びが書いてありません。その代わりに、「IR担当より投資家の皆様へ」という記事がある。ここに、今回の一連の事件について、シノケンがどのように対処したかが列記されています。つまり、シノケンは、そのHP上において、今回の問題をシノケンの株・建造物に投資している投資家へのお知らせとしか流す必要がない、と宣言しているようなものなのです*1。住民は、無視されています。その意味ではまだヒューザーのHPの方がまっとうです。

いや、別に、実体においてヒューザーの方がましだ、とか言いたいわけではありません。問題は、この期に及んで「IR」として情報をリリースするシノケンの保身的な体質が、そのまま企業における倫理観の欠如を如実に現している、ということなのです。

実際には、堀氏が指摘しているように、建築主・確認検査機関・下請けの建築会社・設計士のすべての馴れ合い的な体質がある、そうした状況において起こった惨事(複合的人災)なのだ、というのが正しいところなのかもしれません。そして、そうした業界内の「繋がり」に一役買っているのは、天下りという、わかりやすい利権の維持のシステムですね。なにもことは公共事業だけではないのだと思うのです。行政も含めてこの国には、真の意味でのモラルをもった第三者チェック機関なるものが出来ないようになっているのではないかと思うのですね。国交省天下りが、様々なレベルで行われる。皆、親戚みたいなところで、どんなチェックがなされるのか。

会社がつぶれれば補償が出来なくなる、そして国は背負い込みたくない…といった構図は水俣病におけるチッソと国の関係を思い起こさせる話でもありますね。しかも、今回のケースは、もしかしたら氷山の一角かもしれないという潜在的な恐怖がある。もし第二、第三の「姉歯」が出てきたら、収拾がつかなくなっていくでしょう。また、早々と木村建設は倒産を決めましたね。これで、法律的には補償義務を負わなくなったわけです。

FILMeXでアモス・ギタイの「フリーゾーン」を見て、ナタリー・ポートマンが主演と知りびっくり。事前にあまり情報を仕入れず見るように心がけているので、知らなかったのですよ。

イスラエル人の自動車工の妻ハンナ・ラスロが、フリーゾーンと呼ばれるヨルダンの関税フリー地区でやりとりされている装甲車(イスラエルで加工し、イラク人に売っている)の売り掛けを回収しに、フリーゾーンのアメリカ籍パレスチナ人の元を訪ねる、しかし、観光案内の職もしている夫に代わって引き受けたイスラエル上流階級の婦人と息子、その許嫁のナタリー・ポートマンのうち、婚約を破棄したポートマンが彼女と一緒にどこへでもいいから連れて行って欲しいと願い、仕方なく同行を許す、という話です。

国境では、テロを警戒するモサドのチェックが厳しく、なかなか入国が許されなかったりもするのですが、一度ヨルダンに入れば、あとはひたすら走るだけです。その走行中、運転をする主婦とポートマンの、それぞれの回想が長い二重写しで入るのですが、見ながらジョージ・スティーブンスの「陽のあたる場所」を思い出していたのでした。そして、それについてのゴダールの言及ですね。

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エリザベス・テイラーの純粋な美しさが「理想」の世界だとして、そうではない「現実」が二重写しで重なる、という言い方もできますが、しかしあまりにその長い二重写しの中で、どちらが現実なのかわからなくなる困惑。その困惑をベースに、アモス・ギタイは、ハリウッド女優ナタリー・ポートマンエリザベス・テイラーとも重ね合わせながら、アメリカ・イスラエルパレスチナ・ヨルダンを、どのようにリンクさせていくか、ということを試みているのだと思います。つまり、そこでは女優の選択それ自体が、非常に重要だったのではないか。もちろん、長回しに耐えて、ひたすらマスカラの流しながら泣き続ける横顔をさらしている冒頭のシーンから、ナタリー・ポートマンの演技もとても良いのだけれど。パレスチナ人女性を演じるヒヤム・アッバスも含めて、女優三人は、ギタイ自身が上映前のコメントVTRで言っていたように、すばらしい。

以下、ネタばれです。

ポートマンは、片親だけがユダヤ人の娘という設定です。よく知られていることですが、イスラエルユダヤ人の定義を、両親ともユダヤ人であること、としています。その一方で、(ちょっと記憶が不確かなのですが、確か)片親がユダヤ人であるだけでも、移民は受け入れている(それはパレスチナ人との人口のバランスの問題が前提としてある。パレスチナ人の人口がイスラエル国内で増えすぎてしまい、パワーバランスが崩れることを危惧している)ので、矛盾は大いにあるのですけれど。ともあれ、そうした理由から、ポートマンは許嫁との結婚を、義母に反対されるのでした。そして、自分の居場所はこの国にはなく、また(理由は示されませんが)アメリカにもないと感じていた彼女は、どこへでもいいから、といって、ヨルダンにつれてきて貰うのです。

この、アメリカのユダヤ人(片親だけ)が、アメリカから外へ、さらにイスラエルから外へ、という運動にさらされること、それを実際にハリウッドでスターであるナタリー・ポートマンが演じることも、やはり重要なのです。そして、アメリカ・イスラエルの外側で、ポートマンは、アメリカでアラブ人と結婚し、ヨルダンに戻ってきた婦人が、現地で息子と相容れず、また夫の親族にも受け入れられていない事態を目の当たりにします。そこでは、ポートマンの立場と、相似的なパレスチナ人女性の生がある。そうして、アメリカ・イスラエルパレスチナ・ヨルダンは、リンクしていく。

その連動が、車の音楽に耳を傾けながら、イスラエル人の女性=ハンナ・ラスロと、パレスチナ人の女性=ヒヤム・アッバス、そしてアメリカ人女性=ポートマンが、ヨルダン国境にイスラエル人女性が手にするはずだった金を持ち逃げしてしまったアッバスの息子を追っていくシーンですね(彼は、アッバス曰く、テログループに合流しかねず、彼女はそれを阻止したいと考えている)。3人の女性は、一つの音楽を聴きながら、車の上下運動にあわせて、その横顔をそろえて揺らし続ける。そこにおいて、彼女たちは通底しているのです。女性として、あるいは母(及びその予備軍)として、あるいは愛を政治とあわせて考えなければいけない者たちとして。

しかし、その運動は長く続きません。封鎖された国境の前で、イスラエル人女性とパレスチナ人女性は再び言い合いを始める。アッバスが金を隠しているとラスロは疑うのです。その言い合いのさなか、ポートマンは車を走り出ると、国境を封鎖する兵士たちの制止も聞かずに向こうへ向こうへと走り続けるのでした。カメラは、彼女を車の場所から、ただ遠ざかるものとしてとらえます。なるほど、運動は、そちらの方へ向かわなければならないのかもしれません。しかし、現実は、アメリカのスター、ナタリー・ポートマンならば国境を突破してもうたれはしないかもしれませんが、アモス・ギタイのカメラは、撃ち殺されてしまうかもしれない。

だから、映画は果てしなく続くイスラエル(人女性=ラスロ)とパレスチナ(人女性=アッバス)との言い合い続く車の後部座席で、もうすっかり夜も更け、ナタリー・ポートマンの姿も見えないというのに、ちょうどポートマンが座っていた場所から、二人を見つめ続けなければならないのでした。

*1:IR(Investor Relations)とは、企業が株主や投資家に対し、投資判断に必要な情報を適時、公平、継続して提供して行く活動全般。