落ちる人

フレッド・ケレマンという映画監督のことは、ずっと気になっていました。何年か前の東京国際映画祭で、「フロスト」「アーベントランド」の2作が上映されたときには、所用からどうしても劇場に赴くことが出来ず、しかし後に評判を聞いて悔しい思いをしていたのでした。

タル・ベーラの撮影監督も務めたことがある、と聞くだけで、まずそそられるものがあるわけです。しかし、こういうと、尖った映像の作家をイメージされそうです。実際、「落ちる人」は、長回しを用い、夜景の中におけるライティングなどに細心の注意が払われ、モノクロームの卓越した映像設計を見ることが出来ます。しかし、視覚的なスペクタクルを見せる、という感じではありません。むしろ、映画の舞台となるラトヴィアの首都リガの、ヨーロッパの小さな国の首都らしい寂れた風景こそが、かなり重要な被写体としてまずある。それは、この映画の主人公の男が見せるさえなさ、目の前で川に女性が飛び降り自殺しなければ、おそらく毎日何一つ変わりない繰り返しを過ごしていたのではないかと思われるさえなさと呼応しています。どこまでも華美であることは避けられている。さびだらけの橋の欄干、石畳、無機質な、男の勤める資料室の風景。長回しといっても、カメラに複雑な動きをさせることはしません。むしろ、俳優たちは、限られた選択肢の中で、愚直なまでに行為を行うように思えます。そして、その動きを、慎ましくカメラは追いかけるのです。

しかし、直線的な、その行動が、なだらかな運動になるわけではないのですね。むしろ、直線的であることが、なだらかさを不能にする。そうした停滞も含めた時間が、この映画には流れています。ここに、ケレマンの提示する映画があるように思います。もっとも印象的なのは、斜面をひたすら男がよじ登って、土手の上の道の向こうに消えていくショットでしょう。カメラはやや逆光で、土手の下から主人公の背中を捉えます。かなりの急斜面で、主人公は何度も滑り落ちながら、徐々にはい上がっていき、左右に身体の位置をずらしながら、徐々に上へと向かい、ようやく土手を上りきり、そして、あっけなく向こう側へと消えるのでした。

男が、たばこをふかすと、それにきれいにライトが当たり、夜の闇に白く光るシーンが印象的です。つまりこの映画はある意味でフィルム・ノワールなのです。投身自殺した女の謎を、男が追う。そのうちに、女性を巡る謎が姿を現してくる。そして男=探偵は、女性を苦しめた女性の恋人(その恋人のために、女性は夫と息子を捨て、更に自殺した)を追いつめていくのでした。しかし、他方で、女性の自殺、それを止められる立場にいながら、見過ごし、みすみす飛び降りさせてしまった男の後悔、というモチーフから見えれば、この映画は、ごく平凡な男の物語としてもあります。自身の分身とも言うべき女の恋人を、責め立てるのです。

以下、ネタばれです。

しかし、その恋人は、男から見れば、美しい女と情事を重ねた物語上の人物でもあったかもしれません。彼は、その恋人や、その物語を欲望し、謎を解こうとした、といえそうです。ところが彼自身はどこまでも部外者であった。謎が担保されている間は、それでも男が主体的な存在としてあるフィルム・ノワールとして成立していくでしょう。けれど、女がパブに残した読みかけの手紙も、橋から落下し「助けて」と叫んだきり声が聞こえなくなったことも、謎でも何でもなく、女は自力で川からはい上がり、生きていた、とわかる終盤において、つまり解かれるべき謎などどこにもなく、偶然再会した男の目の前で、女がその夫と息子と連れ添って去っていくのを目の当たりするときに、その男の謎解きが、実は最初から存在しないまぼろしの謎であったと示されるのでした。

そのとき、彼が残した軌跡は、ある意味では徒労です。そして取り返しがつかない。追いつめた女の恋人は、酒屋で男と言い合ったあと、拳銃自殺してしまってもいます。しかしそれだけが取り返しのつかないことではありません。欲望し、求めた謎が、単に彼とは無関係の、解く必要のないものだったとわかることにおいて、取り返しがつかないのではないでしょうか。謎は、推理と言うほどの推理もなく、スムーズに解けていくのです。しかし、ただそれ自体が無意味だっただけなのです。そして、男がその謎解きに費やす時間は、結局はその謎の無意味生において、ただ時間が過ぎていただけなのかもしれません。それこそが男=探偵(ではない)の、残酷な取り返しのつかなさなのです。

書きかけの手紙が3通捨てられており、それを読むが、肝心なことが賭けずに丸めて捨てられている、その絶句を、3つの書きかけの手紙で繰り返し確認すること。その前進の困難にある時間が男の時間です。けれど、その時間は、後に有意義に反転されたりはしないのです。むしろ書かれることが無意味だからこそ書きかけで終わっていたとただわかるのです。けれど、それこそが取り返しがつかない。それは、私たちが、私たちの人生について考え、想像する上で、もっとも残酷な時間の作用のひとつです。この映画にはリアリズムがあります。ひりひりと、それを、私たちは見るのだと思います。