チェン・ミン / 憂国呆談 / 情報統制

アメリカ軍がイラクにおいて、「多くの誤った情報が流れており、対抗する必要がある」とのことから、アメリカ軍の「功績」を金を払って新聞に掲載させた、という話は、アメリカがイラクに与えたと、アメリカの言う「解放」の性格を、典型的な笑い話として浮かび上がらせていると思います(関連記事)。

しかし、ではこれがイラク国内のことだけか、というと、アメリカ国内におけるイラク戦争にまつわる情報統制、また、日本国内における、先の総選挙を巡る与党に踊らされたマス・メディアの混迷ぶり、などなどを思い返してみると、「軍が金を払って記事を書かせた」というわかりやすさがない分、アメリカや日本における「情報統制」は(それぞれ性格は異なるものの)もはや笑い話にすらならないのかもしれません(おめでたすぎて笑えない)。

そうした状況は、端的に言って、人がものを考えない習慣を蔓延させるのですが、国家とマス・メディアの迎合的な状況の作り出した、形を変えた、一種の思考統制だと言えるでしょう。大衆扇動政治という言葉も思い出されます。田中宇氏のHPを見ていたら、小泉純一郎だけではなく、相対的には日本よりもグンとまともだと思っていたフランスですら、ニコラ・サルコジ内相のような人物が、国内のアラブ系民族を刺激し、暴動を扇動、結果、全体の右傾化を引き起こすことに成功したり、また少し前にはオーストリアで移民排斥を訴えたハイダー政権ができたりもした、という指摘をしていました。もちろん、大衆扇動政治の代表はナチス・ドイツヒトラーであるわけです。

そうそう、やっとですが、浅田彰田中康夫の「憂国呆談」の最新刊、「ニッポン解散」を購入しました。連載時にだいぶ読んでいたとはいえ、2002年秋から2005年秋までの3年間を、この2人の視点からもう一度振り返るというのは、なかなか有意義な経験です。

ニッポン解散 続・憂国呆談

ニッポン解散 続・憂国呆談

まあ、暗い気持ちにもなりますけれど。2002年の秋は、まだイラク戦争が起こる前なんですね。この3年間は、世界が一挙にだめな方向に向かって転がりだした、21世紀も暗い世紀なのかなぁと思わずくじけてしまいそうになる(いや、本当にはくじけないけど)、流れを強く感じさせるのです。また、この3年間は、小泉政権の「改革」とはなんだったか、を巡る3年間でもありました。そして、その「改革」に対する審判が、2005年秋の総選挙だった、といえるでしょう。このことも、私を暗く沈み込ませるのでした(笑)。

FILMeXの上映作品で、個人的にもっとも楽しみにしていたのが、中国の映画監督チェン・ミン(章明)の最新作「結果」です。「沈む街」「週末の出来事」と、実質的には資本主義社会に向かって変化の過程にある中国を舞台に、変容していく世界の見えない着地点、手応えのなさを、空虚さを抱えながらも独特の頑固さで存在する人々の人間関係から描いてきたこの作家は、「結果」でも、自らのモチーフを貫いていきます。

以下、ネタばれです。

映画は前半と後半に別れています。舞台は中国南部のリゾート地、秋にさしかかっているのか、やや閑散とし始めた季節です。前半は、私立探偵が、行方のしれない旅行代理店の支店長を捜索、そのうちに支店長と関わりがあり、妊娠している若い女と出会い、彼女に愛の告白をするが、願いかなわず去っていく、という話で、後半は、その支店長に恋人を奪われ、私立探偵を雇った男が、やはり支店長を自ら探しに来、妊娠している若い娘から逆に求婚されるのですが、海に泳ぎに行ったまま姿を消し、妊娠した若い娘一人が取り残される、という話です。

映画は、前半と後半で、時系列的には連続していながら、同じ物語を反復するという体裁もとっており、男(前半は探偵、後半はその雇い主だった男)と妊娠した若い女が、見つけることのできない支店長を求めて、手応えのない空虚な探索を繰り返しながら、同じ観光地を巡り、同じ店を巡り、同じものを見、同じせりふを語り合うのでした。しかし、前半と後半には決定的な差異もあり、前半は男が女に求愛するのに対して、後半は逆になる、というだけではなく、前半は広東語と北京語の両方を話すことができる探偵が、愛の告白を(相手がわからないと知りつつ)広東語で話す、対して後半は、二人とも北京語しか話せないため、逆に現地の人々の言葉が時折わからないといった違いがあったり、また、映画の前半では支店長の行方を告白しようとしない支店長のこの地における恋人(同じ旅行代理店に勤めている。後半、支店長を探しに来た男の元恋人)が、映画の後半で、若い娘の妊娠を告げられ、ショックで流産してしまう、という大きな物語的な相違があります。そして、流産したあとに女は、支店長の兄の所在を元恋人と妊娠している若い娘に告げるのです。しかし、結局は、支店長は見つからない。

愛の対象を見失う(それがあったこと自体があやふやになる)こと、がチェン・ミンの重要なモチーフであることは間違いなく、それは「沈む街」「週末の出来事」でも見いだせることです。そこにおける不安、その不安における緊迫感が、チェン・ミンの映画に通底しています。「結果」は、しかしそこに、妊娠という事態を加えていきます。ただ見失うだけではなく、そこに残るもの、が、チェン・ミンにおいて重要だったのでしょう。それは、頑固さという表現を先ほどはとりましたが、存在そのものという言い方をすべきかもしれません。それは反復のなかでもすり切れていかない。しかし、流産や、探し求めた対象が見つからないこと、ともに行動していた存在が消え去ることもまた、その頑固さと同時に起こるのです。

ミケランジェロ・アントニオーニが、特にアメリカで撮った映画を思い起こします。映画において、世界のリアルをどう思考するか。チェン・ミンの描く、手応えのないこの世界におけるさすらいと、そこにおける「存在」の問題において、ですね。しかし、そこに単に映画の幸福を見いだすのかというと、どうもチェン・ミンは違うらしいとも言えます。その点で、現在のヴェンダースとも通じながら、時代の作家として、中国の地で、映画におけるさすらいを思考しているのだと思います。

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