中川信夫(2)

昨日の続きです。いきなりネタばれです!

「私刑(リンチ)」は、昭和初期のやくざ者・嵐寛寿郎が、仲間の裏切りにあって、惚れた女と逃亡するも逃げ切れず自主の道を選択、しかし、服役後にやくざに身柄を拘束されそうになり、逃亡、銃で足を撃たれながらも、逆に昔自分を裏切った東野英二郎を殺し、再逮捕、最初の服役後に生まれた子供と妻に会いたくて脱走未遂を繰り返した結果、さらに十数年の服役となり、やっと出所できる頃には戦争も終わっている。他方、成長した娘・久我美子は、街の不良たちの仲間になっていた。戦地から帰ってきた、昔、嵐がかわいがっていたやくざの親分の一人息子・池辺良は、気質として生きようと靴屋を始め、そこで、嵐寛の妻や久我と交流しながら、嵐寛の出所を待つ、ところが、嵐寛が隠した、当時の金で2000万円以上の値が付く金の仏像を狙って、嵐寛の身柄を狙っていた…という話です。

映画の前半と後半で、全くテイストの違う映画になります。前半の見事なフィルム・ノワール的なアクション演出はすばらしく、特に橋を舞台にしたいくつかのシーンは印象的で、東野英二郎と嵐寛寿郎が橋の上でもみ合い、濁流の川に落ちそうになった東野を、嵐寛が見捨てて去るシーン(でも落ちた東野が、それほど大きなけがもせず組に帰っているあっけなさも中川信夫らしい)、あるいは、土手の上で銃で撃たれながら、朝焼けを背景にシルエットだけになった嵐寛と東野がもみ合うシーンも美しい。逆に後半は、久我美子と池辺良が、街を支配しようとするやくざ(父親の嵐寛に因縁のあるやくざ)と立ち向かう話なのですが、すると、青春アクション的な軽妙さを池辺が見せるので、だいぶ雰囲気が変わります。ところが、嵐寛が出所し、酔っぱらった運転手に変わってやくざの親分を乗せたまま自動車の運転を始めると、海辺の夜道で、その命を人質に取ったと、不気味に鼻歌を歌い始めるシーンは、とたんにフィルム・ノワールの影のなかに映画を引き戻していきます。やはり、それもまた、運動神経なのだと思います。そして、戦前から戦後まで、やくざの黒い欲深さだけは変わらず存在しているわけです。

この嵐寛寿郎自体も、結局は仏像を盗み出し、それで将来はいい暮らしをしてやろうと、長い刑務所暮らしを耐えているわけですから、その意味では、金に目がくらみ、正しく生きようとはしていないと言えるのかもしれません(まあ、あまり正しいと、映画としてつまらなくなるので、それでいいのですけれど)。その意味では「毒婦高橋お伝」も、なかなかすばらしくて、若き警官(松本明生)と出会い、恋に落ちはするのです。また、車引きに身をやつした貧しい元夫の元に捨ててきた娘を思ってこっそり会いに行ったりもするのです。しかし、目の前の欲望、金を、どうしても追求してしまうお伝(若杉嘉津子)は、丹波哲郎演じる人買いのやくざの情婦となって、若い女をたぶらかしては売り払う悪事に手を染めるのでした。さらに胸を病んだ夫もあり、彼女の人間関係は、情と欲望の混乱の中に繰り広げられていきます。しかし、その金を前にしたときの判断の早さが、彼女の悪女としての運動神経を成立させるのでした。

冒頭の、警官に追われたお伝が飛び乗った車が、物言わぬ車引き(元夫だとあとでわかる)によって知らない街までつれてこさせられるシーンの、車の車輪と若杉の貌を交互に映し出すサスペンス演出が鮮明に記憶に残っています。「人形佐七捕物帖 妖艶六死美人」で、美女たちが自分の似顔絵を切り裂いて見せ、絵師の顔に泥を塗り狂い死にさせる冒頭のシーンもそうでしたが、中川信夫の映画の、予備動作のない唐突な物語の始まり方は、とても魅惑的です。その唐突さと素早さにおいて、短い映画も異常な情報量を帯びていくのが中川信夫です。

こうしていろいろ書いてみると、「妖艶毒婦伝 人斬りお勝」は、実に中川信夫的な、いろいろな要素の詰まった映画だと思えてきます。

映画の冒頭は、代官・塩崎(今井健二)による農民の大虐殺シーンなのですが、その血みどろの所行に、太もももあらわにした女渡世人・お留以(大信田礼子)が割り込んできて、斬られそうになった農婦を助け出し、お勝(宮園純子)の道場までつれてくる冒頭の一連のシーンの唐突さ・強烈さが、一切ゆるまずに、物語がどんどんと流動性を帯びて展開していくのが、すばらしく、あれよあれよという間に、道場の師範代がお津とその父親(西村晃)を裏切り、弟・林太郎(近藤正臣)は塩崎一派にだまされて借金を背負い、妊娠している恋人・お咲(賀川雪絵)と駆け落ちすることに、しかしその罪の身代わりに、岡津の父は拷問死、お勝も塩崎に犯されてしまうのでした。

この一連のシーンで、お勝の弟・林太郎の情けなさぶりはすごくて、賭場でいかさまのために借金を背負わされ、それを見破ったお留以のおかげで逃げ落ちるときに、どさくさ紛れに賭場の金をわしづかみで盗んでいくのですね。金です。目の前の。それに弱い。いかにも中川信夫の人物である林太郎は、昔の道場の下男を訪ねて落ち延びるのですが、その金目当ての下男とその情婦のためにあっけなく殺され、お咲も楼閣に売り飛ばされてしまいます。その楼閣で、お勝の復習の刃を受けて下男とその情婦は死んでいくのですけれど、下男はお勝の体を欲したために自滅、情婦は嫉妬に狂っただけではなく、やはりお勝の体を狙って下男に殺された楼閣の主人を見て、自分の命も危ないのに金箱を奪って逃げ出そうとしてあっけなく斬り殺されるのでした。

この目の前の欲望への弱さ、つまりは、ある種の人間性の発露が、中川信夫の人物なのですが、普通なら、欲望の対象を前に、良心において躊躇して見せそうなところで、そういう過程は、思いっきり省かれてしまう(中川信夫的人間には、備わっていない機能である)ことによって、半ば暴力的に、映画は軽やかさを帯びていく、とも言えそうです。

楼閣のシーンが、全般にすばらしく、引きの遠景で、楼閣1階2階をまるまる撮している。「万事快調」またはドリフのコントを思い出しながら見ていたのですが(笑)、その楼閣の全景は、いってしまえば、買われてきた女たちと、それを食い物にしている人間たちの縮図として存在しているわけですね。単に、それは視覚的な問題ではなく、そこにうごめく力学、欲望の形態を、最適に描き出そうとしたのではないか、と考えています。こうした贅沢が許される環境であったから、した、ということもあるのかもしれませんが。

欲望に忠実である、という点では、道場主である西村晃を裏切っただけではなく、それを木刀で叩きに叩き、目を木刀で突き上げ、殺す師範代(俳優は失念・山岡徹也…かな?)なども印象的で、自身の出世欲のために、どれほどでも残酷になれるのです。男性の拷問シーンを、血みどろの残酷なシーンとして延々と演出するのは、やはり「地獄」の中川信夫の世界だ、とも言えるかもしれません。そこでは、単に残酷さの華やかさ、などではない、黒い欲望が、やはりあるのです。

賞金稼ぎとして登場する若山富三郎も、かなり強烈な欲望の動物でした。盗賊の汚名を塩崎に着せられたお勝を、自分の獲物を確保するためとはいえ、取り方まで銃で何人も撃ち殺して引っ立てるというのは、あまりにもあまりな方法なのですが、その傍若無人な振る舞いが、追いつめられ、圧殺されそうになるお勝を、結果的に救うことを考えると、やはり欲望と軽やかさをsなえたそんざいとして、この映画における象徴的な存在だとも言えるのかもしれません。

などといろいろ書いていたら、「東海道四谷怪談」が見直したくなりました。改めて思い直してみると、あれもまた、業と軽やかさが共存する、不可思議な中川信夫の映画なのでした。「地獄」もそうですね。あの吊り橋の上から落下する傘の鮮やかさ。そして同様に落下する人間の鮮やかさ。それが等価になる中川信夫の不思議に、映画の不思議を感じるのでした。

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