Tortoise「Tortoise」/ サグァ / 完全な一日

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Tortoise

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トータスのデビューアルバム。かなり偏愛してます。揺らぎと確信が同居しうるのは、その初期の欲望においてである、という言い方を敢えてしてみます。それは、恋愛の話でもあるでしょう。

FILMeXで見たカン・イグァン監督の「サグァ」は、恋愛に対して、不器用なだけではなく、同時に真面目でもある男女を、映画のエンジンとして起動させ、その結末へと映画を連ねていく作品です。一目惚れした男女、しかし、二人の間には障害があり、という話は、映画の物語として典型的です。しかし、多くの映画は、その障害を、乗り越え可能か、乗り越え不可能かで描き、乗り越え可能ならば、幸福な恋愛・あるいは結婚があり、不可能ならば悲しい別れがある、という風に描きます。もちろん、愛し合いながらも、乗り越えられない障害故の悲恋、という物語もあります。しかし、現実は、結婚したあとも、妊娠したあとも男女の関係は続くわけです。趣味の合わない、田舎者の男と、都会派の女は、一目惚れした男の一途さや素朴さに、次第に女がほだされる形で、結婚へと突き進んでいきます。長年付き合っていた彼氏が、漠然とした不安から、彼女の元を去っていったことも、背景としてもちろん大きかったでしょう。偶然の出会いと、気のあっていた恋人との別れがタイミング良く重なり、恋愛は結婚へ、結婚は妊娠へ、と男女の関係を推し進めていくわけです。けれど、元から気が合わない二人であり、文化的背景も、信条も異なる二人は、必然的にすれ違ってもいきます。ここで不幸なのは、この映画の男女が、あまりに真面目で妥協がないことです。実は全員ががんこに恋愛を求めています。そのために、必然的に関係は破綻していきます。

以下、ネタばれです。

破綻した関係のあとでも、慈しみあう感情は残ったりするし、だからベッドの上に招いて、抱きしめて、女は男に謝ったりするのですね(痛いなぁ・笑)。その映画のラストシーンは、ちょっと印象的です。謝罪したからといって、また、慈しむ気持ちが残っていたとしても、元に戻るものではないことは、容易に想像が出来ます。だから、別段そこに救いを見出すわけではありません。ただ、割り切れない人間的なものが、そこにあることを私としては肯定したいわけです。

映画を、感情の道具としてでも、単純な感情の表現としてでもなく、良くある出来事(一目惚れや、デートや、結婚や、妊娠など)のなかの割り切れなさ、ずれ、ひび割れを描くものとして、ただ映画にその人間的な感情を残すこと。恋愛映画は視線劇としてのカットの切り返しが、もちろんとても重要なのですけれど、この映画は、そこにおいて、別段特別な技法を使っているのではありません。ただ、切り替えされるたびに、一致していたはずのものが一致しなくなったりする痛さや、それでもときには切り返しの視線に心地よい時間が流れたりすることの、連続を丁寧に積み重ねるのです。そして、そのずれをどこまでも物語的結末へと行き着かせないまま続けることで、「恋愛映画」として豊かな揺らぎを作り上げているのです。

今回のFILMeXには、そういえば、もう1本、秀逸な恋愛映画がありました。ジョアナ・ハイトゥーマとカリル・ジョレイジュの共同監督による「完全な一日」という作品です。ベイルートに住む建築士の比較的裕福な青年マレクは、恋人ゼイナに振られ、その恋人を半ばストーカーのようにつけ回しています。何通ものメール、電話。しかし、彼女は着信拒否をし、メールを無視し、彼を徹底して遠ざけます。一方で、彼には母親がいるのですが、彼女の夫、つまりマレクの父親は、1980年代のレバノン内戦時に行方不明になった17000人の人間の一人であり、マレクは区切りをつけ、財産を整理するためにも、行方不明になってから法的に必要な期間はとうに過ぎていることもあって、死亡したことにしようとします。しかし、母親は、心のどこかでそれを受け入れられず、その不安も手伝って絶えず息子の携帯に連絡の電話を入れ続けます。けれど、その電話は、息子としてはうざったいものに過ぎず、幾度も無視をするのでした。

息子が、無き夫の代替物であり、映画簿冒頭、ベッドに横たわって眠る息子に、暗示を掛けるように父親の死亡届を出すのをやめようと囁く母親は、手で息子の裸の上半身を優しく触っているのでした。それは、決して性的な接触ではないのですが、しかし、映画の後半、酔いつぶれたマレクに、気持ちが甦って、そっと愛撫をはじめるゼイナの手の動きと呼応しながら、マレク(=死んだ父親の記憶)をまさぐる2つの手のひらが、レバノンの記憶(傷)と、恋愛の困難の同時をまさぐる、その瞬間の厄介さは、恋愛がこの世界の中でなされることを探り当てるからなのです。それは、おそらく日本においても、どこにおいてもですね。つまり、レバノンに生きている人間を、私たちは、映画の中の、この手のひらの運動によって、知る、ということかもしれません。そして、それもまた割り切れなさの一部である気がします。

恋人の残したコンタクトレンズをつけ、光がにじみ、前がよく見えない中を車で疾走するマレクの前に広がる映像が、印象的でした。単にきれいだというのもありますけれど。にじんで、世界がよく見えない。しかし、元から不確かなわけですから。もちろん、いささかストレートなシーンです。しかし、その直球を、映画の全編のクライマックスに据える潔さも含めて、私は、この映画の中で描かれる恋愛が、とても好きなのでした。

恋愛に不器用なだけではなく、真面目であることを、私は肯定します。真面目である、というのはモラルがあるという意味ではありません。恋愛に真面目である、というだけです。とはいえ、ストーカーは、ダメですね(笑)。