Individual Orchestra / タモリ倶楽部

田中フミヤの変名プロジェクト「Individual Orchestra」は、かなりの愛聴盤。私は、盛り上げられることとか、あまり好きではなく、とはいえ、盛り上がるときには果てしなく盛り上がるけれど、それはともかく、比べれば、クールさと、クールさに同居するざわつくとか、ゆれるとか、震えるとか、そういう細やかな危うさにより強く惹かれやすい特性があって、田中フミヤがこのアルバムでみせるクールさは、なかなかそうした私の要望にマッチするものなのです。

karafuto presents individual orchestra

karafuto presents individual orchestra

危うさ、といっても、このアルバムにあるのは、音が音自体を解体したり何かを破壊したりといった態度ではなくて…ある種のクールなスタイルが達成されたあと、その達成がぎりぎりの縁に立っている感じで、よくわからないけれど、その向こうは深い奈落があるという感じです(ひどく抽象的)。しかしその縁で無事に立ち、その縁を安全地帯に戻らずに歩み、揺れもせず進む技術を伴っている、という危うさです。緊張感といってもいいものだと思います。

さっきまで「タモリ倶楽部」を見ていました。

以前友人が、最近のお笑いは、テレビ通して視聴者を楽しませるのではなく、テレビで自分たちが楽しんでいるのを見せているだけ、という話を否定的なニュアンスでしていたのを覚えています。言い換えると、そこでの笑いは、おそらく閉じたものとなり、他者がないものとなる、それではつまらない、ということではないでしょうか。なぜなら閉じた自分たちの遊び空間を見せる、というとき、それは、どう見せるか、ということも頭の片隅に置かれた上で、遊ばれる。つまり、見られる上で、やってはいけないこととかがあり、それを芸人たちは良く知っている。つまり暗黙のルールがあって、それを侵犯する振りをしてしない、遊びの連続しかそこにはないからです。テレビの向こうという他者に向けての笑いは、顔の見えない他者に向かう分、もう少し違う可能性を帯びているとも思います。

しかし、その閉じた感触が、どこまでも無意味なくだらなさを帯び、それをただただ続けるとなると、だいぶ違ってくるようです。それが「タモリ倶楽部」だと思います。みんなで集まって、はんだごてをすることにどれほどの意味があるというのでしょう。しかし、それを30分続ける。その無意味さを、わずかなトークの盛り上がりだけで、支えていく。変化は、途中で差し込まれる「空耳アワー」だけ。しかし、それとて、毎週、金太郎飴のように続く、同じ出来事の微細な繰り返しが、何年も何年も続く、そういう時間を巡る遊びになっているのです。