Death Note

大場めぐみ・小畑健の「Death Note」9巻を購入しました。このコミックスは、ノートに名前を書いただけで、人の命を奪う力を得た、つまり全能的な力を手に入れた少年・ライトの物語です。当初私は、どのようにしてその全能感によって滅んでいくのか、という物語になるだろうと予想したのですが、まったく勝ち目のないゲーム(一方はゲームを熟知しており、一方はまったく熟知していない状態で同じ土俵に立たされるから)であるはずだったのに、対等に戦う同年代の少年エルの出現により(その意味では、エルはライトの数段上の知性の持ち主であった)、全能感を維持する戦いがずっと続くことになりました。現在は更に、ゲームのためのゲームとして、全能感とはなにか、という問い直しには行かないまま、全能感(それは圧倒的な知性/強者の一種の隠喩かのよう)をライトとその敵が競う形になっています。

DEATH NOTE (9) (ジャンプ・コミックス)

DEATH NOTE (9) (ジャンプ・コミックス)

読んでいるうちに、このコミックスの面白さは、全能感とは何かを問い直さないという病にある気がしてきました。

全能感といえば「ドラえもん」ですが(笑)、どこでもドアとか、もっとすごいのはもしもボックスですが、これらは、もっともっと有効に、さまざまなことに活用できるはずなのです。しかし、のび太ドラえもんも、日常のくだらないことにしか使わない。全能的な能力がそこにあるのに、それを活用せず、その仕方それ自体も考えようとしないわけです。更に、最後には多くは道具の使い方に失敗して、ろくでもない目にあう。つまりはゲームに興じる。そこには全能感に対する憧れと、裏腹の自然な距離感があるように思います。

これに対して、ライトはのび太ではないですから、上手に道具を使おうとします。それは結果的に、全能感との距離を微妙にします。とはいえ、滞りなく道具が使えてしまえば、人の命を奪う道具ですから、無感動な凡庸さに陥るか、良心との葛藤に悩むか、どちらにしても、全能感を持つ自分の問題が浮上します。しかし、それは適度な敵の存在によって、回避され続ける。つまり、全能感は延命され、批判の対象となっていかないのです。

意識的な全能感の延命。そこに一種の(露骨な)引力を発生し、それにおいてこの漫画は続きうるのではないか。もしかしたらライトはダーク・ヒーローとはいえないのかもしれません。ダークな勝ち組がいる、という言い方ではどうでしょう。そこに読者をひきつける、引力があるのではないか、と。

ある意味で、今日の欲望の一形態かもしれません。私はそこに組しませんが、それでもなお、たとえば、1円の株式を買い占めて一人で何十億も設けるような、そうしたゲームにおける、勝ち組のあり方と、そこに向けられる羨望と欲望があるということは、やはり想像できてしまいます。

いや、勝った人々を中傷したいのではないですよ。それはそれで、機を見るに敏だったわけで、運+才覚です。ただ、私は、たぶんそうしたことに対して機を見るに敏にはなれない、それは金儲けがしたくないからではなく、欲望の方向も資質も、そっちの方向に向かっていない、だから見逃すほかないだろう、というだけなのです。だから仕方がない。別の豊かさを目指そうと。

全能感の微妙さは、別の豊かさ、という言葉を失念させるところにあるのかもしれません。全能感をどこまでもくじいていく「ドラえもん」の秀逸さは、言い換えればのび太の、極端な情けなさによっています。あの情けなさこそが、純粋なゲームとしての豊かさをぎりぎり保つのかもしれない。しかし、そこから一歩踏み出して、全能感ともう少し戯れようとすると、とたんに難しいことになる。その難しいことに「Death Note」は踏み込んでいます。現代的な読者の要請にしたがって…なのかもしれません。

だとしたら、「Death Note」の閉塞感を打ち破るには、ライトののび太化しかないのかもしれませんね。まずは、丸いふちのめがねからスタートです。