ハリー・ポッターと炎のゴブレット

ハリー・ポッターシリーズ、すべて劇場で見ています。

マイク・ニューエルという監督の作品は、実は「ダンス・ウィズ・ア・ストレンジャー」だけしかみておらず、しかもそれすらまったく記憶に残っていないものですから、この映画だけで判断してしまうのは、いささか不適切だと思うのですけれど、なんというか、非常に不思議な省略の多い作品であったように感じられました。たとえば、ハリーのライバルたちの活躍がほとんどなく、むしろ、ライバルたちは華やかに登場した割には、いまひとつ役に立たず、代わりにハリーの入浴シーンなどが、たいして意味もなく延々と続いたりするのでした。

主演のダニエル・ラドクリフは、もうだいぶ成長してきていて、うっすらすね毛、胸毛が生えかかっており、入浴シーンを映すことがハリー・ポッターファンのハートをどれほどつかむことができるのかはわかりませんが、ともあれ、違和感がありました。

ただ、逆に、その奇妙なジャンプの仕方、たとえば物語を危うくするような登場人物たちの葛藤などは大して描かれず(つまりドラマ志向ではなく)、結末に向かって、飛び石をはねねていくかのように、エピソードが、必ずしも脈略なく連なっていき、ピンチだピンチだといいつつ、結局はポッター自身の努力とは無縁のところで物事が解決していく、その宿命的ともいえる物語の展開が、とても面白いとも感じたのでした。これはいささかアイロニカルな見方であることは認めますけれど。

たとえばハリー・ポッターの初恋らしい感情や、ハーマイオニーエマ・ワトソン)の少女から女性への変化といった心の機微は、少しだけ描かれても、どこか決定的に欠落もしています。それらは、要素であって、中身ではない。独立した情報であって、連鎖する情報ではない、という感じなのです。

そして、結果的にはすべてがハリー・ポッターという存在の周りを回る騒動に過ぎない、ということになります。最後には、ハリー・ポッターの圧倒的な血筋のパワーですべてを撃退していく。この結末が見えているからこそ、綿密に積み上げられていく物語など、無意味なのかもしれません。その自覚があるから、すべての情報を断片化し、そこらに散りばめてしまうほうが、むしろ「ハリー・ポッターの世界」を堪能する上で理にかなっているのではないか、と想像します。映画的に鮮やかなアクションシーンが積み重ねられるわけでもありません。むしろ、ただハリー・ポッターに密着したカメラにすぎない。だからたいして重要ではないシーンも、奇妙に長くなったりします。それはラディカルではありません。ただ、その徹底ゆえに、面白いと思ったのです。まるで、誰も彼もが物語を知っている前提で、やや偏ったダイジェストを作っているかのよう、というと伝わるでしょうか。運動会で、自分の子供だけに向け続けたカメラワークの、超豪華版、というか(笑)。