男たちの大和(1)/ ALWAYS 三丁目の夕日(1)

2005年度末、日本映画では、「男たちの大和」と「ALWAYS 三丁目の夕日」という(それぞれ異なる意味ではありますけれど)非常に贅沢なつくりのふたつの作品が、ともにヒットを記録しました。その贅沢さにはひとつの方向性があり、ヒットにつながった一定の法則があるように感じます。

両者に共通するのは、ある傾向を帯びた単一の視点において歴史やそこにおける人間を捉え、その徹底によってフィクショナルに美化された生を描こうとすることです。単一であることは、必ずしも間違ってはいませんが、映画なら映画において、映画の原理に単一であろうとすることと、映画の外部の規定に映画を馴らしてしまうこととで引き比べたとき、後者のほうは、やはり一定の慎重さが必要だと、私は感じています。

たとえばジョン・フォードを思い出します。ゴダールの有名な言葉にもあるとおり、フォードは政治的には右側の映画作家である一方、しかし涙なくしては見られない。フォードの映画には、映画ならではの運動、映画ならではの空間が、間違いなく存在しており、息づいているからです。つまり、ある意味で映画は、政治とは無縁に存在します。それは「ある意味」正しい。そうした映画の原理主義は、まず肯定しておきたい。

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しかし、逆に、映画外部の政治/美意識が、決定的な力をおびて映画の美しさを規定することもあり、それはフォードにおいても例外ではなく、実際フォードは、そうした政治/美意識との結びつきを否定せず、むしろ積極的に取り入れてもいたわけです。

ただ、この場合問題は、そうした映画外部の政治/美意識が、映画の可能性を削減してしまうことでしょう。

そこで、私としては、二つことがポイントとして浮上します。一つは、「男たちの大和」や「ALWAYS 三丁目の夕日」では、その美化(一方は「特攻的犠牲精神の美化」、もう一方は「ノスタルジックな失われた共同体や家族の美化」)を、「映画」に依拠させることができているかどうか。もう一つは、状況論的に、ある政治/美意識を帯びた単一な視点に抵抗する、複数の視点ないしは、やはり単一であれ無邪気な疑問の視点が在するかどうか、です。

男たちの大和」で、敵爆撃機の攻撃により、ぼろぼろに壊れていく大和と、血まみれの肉片になっていく搭乗員を描いている一連の戦闘シーンは、単調ではありますし、フォードのようにそこに映画のオルタナティブな力が息づいているとは到底いえないと感じますが、しかし、そこには映画の力がやはりあると思います。日本映画ですからバジェットには限界があるとしても、一定以上の金をかけ、創意工夫しながら、巨大戦艦大和を作り出し、それを破壊する。そうした醍醐味を記録することは、なるほど映画だと思います。そうした映像の迫力は、(しかし?)特攻精神とは国を守るための男たちの決意である、という美化されたフィクショナルな物語の前提の上に展開され、また最後にもその着地点へと模索されていきます。「プライベート・ライアン」のスピルバーグであるならば、良い意味で、破綻させてしまいそうなそうした政治/美意識への集約を、何とか成立させるために蒼井優の可憐さや、鈴木京香の敬礼があるのだとしたら、それは映画の可能性に寄り添っているのか、それとも削減しているのか。

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いや、それでも蒼井優はかわいいです。

もうひとつ、「男たちの大和」の難しさは、残された人間がどう生きるか、という問題を盛り込まなければならなかった分、政治的に純粋になれなかったところかもしれません。美意識は、さまざまな留保によって、制限される。死と生をどうにかつくろわなければ、戦争賛美になってしまう、という危惧から自由になれない。映画において殺し合いは魅惑的だ、と開き直れない。しかし死に向かって無謀な覚悟を決めることは素敵です。たとえば「ワイルドバンチ」など、何度みても「憧れを抱く」のです。

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