男たちの大和(2)/ ALWAYS 三丁目の夕日(3)

おととい昨日の続きです。

ある種の閉ざされた政治/美意識が、支配的な状況を作る(映画における大ヒットだけが、そうした状況を作っているとは思いません。むしろそれは、一症候であるにすぎない)として、問題は、単純にであれ、それに抵抗する諸力が、やはり存在しないのは不健康だ、という言い方もできると思います。しかし、見渡してみて、どこに抵抗勢力があるのか。私たちは、それを縊り殺してきたのではないか。

アメリカとの良好な外交関係が築ければ、中国とも、韓国とも、しまいには上手くいく、という小泉純一郎の国際政治意識の低さにはほとほとあきれるのですが、それは、彼のわかりやすいロジック、オール・オア・ナッシングの援用の一つに過ぎず、むしろ問題は、それとわかっていてなぜ、彼を首相にさせておくのか、直接民主主義ではないにしても、それをとめられたはずの国民の側に、多くの問題はあるでしょう。つまり、ここでも問われているのは、抵抗勢力はどこにあるのか、ということです。

冷静に考えれば、民主主義なのですから、旧弊な抵抗勢力はノー・サンキューとはいっても、偉大なんだか失言だらけなのだか良くわからないイエス・マンしかいない状況は、かなりまずいわけです。健全に、言論を闘わせる勢力が必要。小泉チルドレンって、どこかオウム的なわけですけれど、そうしたことに対して美意識において否定する人々が、さすがにもう少しいてもいいはずだ、と、今年を振り返って思うのでした。それは「男たちの大和」や「ALWAYS 三丁目の夕日」といった映画が、映画として面白いかどうかではなく、バランス感覚として、それらとは違うものがもう少しあっていいはずだ、ということです。

と、そういえば、青山真治監督の「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」がまもなく公開ですね。まあ、ちゃんとあるのに、ないない、とだけ言うのも間違っていますね。

ところで。三十年後も同じ美しい夕日があるだろう、と。昭和33年年末の薬師丸ひろ子が、昭和63年に投げ返すのは、その翌年早々の昭和天皇の死だったのかもしれません。というのこそが、まさしくフィクションですが、何かを懐かしむことは、とかくアイロニーと繋がりやすいわけです。しかし、たとえば「プレイタイム」のジャック・タチが見せる「痛さ」を思い返すと、やはり、アイロニーは、覚悟を伴わないといけないのだと思います。結果的にアイロニーになっている、というのでは、やはりなにか弱い。「ALWAYS…」は、そういう意味でのアイロニーも狙ってはいないと思いますが…。

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男たちの大和」での天皇、という問題も面白いですね。実は、ほとんど重視されていない。天皇のため、お国のため、の、天皇が、どこかに消えてしまった映画になっています。日本国の再生のために、自覚的に敗れる、という男たちの犠牲的精神を肯定するためには、戦後、人間宣言してしまう天皇のことには、なるほど言及しづらかったでしょう。

堀北真希は、それにしてもかわいいですね。そして演技達者でもある。小雪も良いかった。「ALWAYS 三丁目の夕日」は、役者の演技は、吉岡秀隆も含めて安心して見られました。薬師丸ひろ子は最近、何を見てもいいですね。あと、子役のセレクトも良かったと思う。

ALWAYS 三丁目の夕日」はテレビが初めて家庭にやってくるのを描いているわけですけれど、ちょっと違和感があったのは、この映画の中で、映画館が出てこないこと。テレビがない家庭のほうが圧倒的だったこの時代、映画は非常に重要なメディアだったし、日常生活に映画は深くかかわっていました。なぜ、それが出てこないのだろう?不思議だ。東宝スコープのテロップだけ、映画の冒頭についていたけれど。昭和33年ごろは、おそらく邦画全社がスコープに切り替わったころではなかったか?記憶があいまいですけれど。