ゲルマニウムの夜 / ニートとフリーター

最近、「ニート」「フリーター」といった言葉の用法が、政府によって、ゆがめられている、という話を聞きました。たとえば、「フリーター」ですが、Wikipediaから転載すると(フリーターでサーチしてください)、このように、内閣府厚労省それぞれで規定されています。

  • 内閣府:15歳以上35歳未満の学生・主婦でない者のうち、パート・アルバイト・派遣等で働いている者及び、働く意志のある無職の者(2003年版国民生活白書より)。
  • 厚生労働省:15歳以上35歳未満の学校卒業者で主婦でない者のうち、パート・アルバイトで働いている者及び、パート・アルバイトで働く意志のある無職の者(2003年版労働経済白書より)。

しかし、35歳未満の学生・主婦でない、という定義はいかがなものなのか?「正社員以外の非正規雇用形態(アルバイト、パートタイマー、人材派遣など)で生計を立てている人」(前述Wikipedhiaより)全般が、本来のフリーターではないのか。そうすることで、単に非正規雇用の人々の数を統計上少なくしているのではないか、と、まず感じます。さらに、実際には正規雇用を求めても叶えられない人々も多くいるわけですが、政府はフリーターの問題を、学生でも主婦でもない「ぶらぶらしている若者たちの問題」にして、国の責任を曖昧にしているのではないか、とも思います。その意味では35歳というラインは有効です。しかし、実際、非正規・不安定雇用の労働者=フリーターの増加は、市場主義のおける弱肉強食を推し進めたここ数年間の、国内におけるリストラ・雇用転換とリンクしていて、かつセーフティネットの施策にも、(相変わらずの箱物行政以外には)雇用拡充施策もまともにない、この国の現状の反映でもあります。もちろん、年金問題を踏まえ、35歳という年齢の線引きになっているという反論もあると思います(60歳まで25年、年金を払わないと受給できない、そのぎりぎりの年齢)。しかし、ことの本質は、失業率と非正規雇用の増加、それに伴う、世帯ごとの収入水準の中央値が、たとえば2004年から2005年にかけ20万も下落しているという実態でしょう。東証は、景気回復ににぎわったとうそぶいていますが、こうまで個々の生活水準が低下していく中、国内需要がいっそう冷え込んでいったときに、どうするのか…。

ニート」も、どこか侮蔑的・差別的な、若者の病理の問題とされています。英国で社会問題化されたときのNEET(Not in Employment, Education or Training)は、「社会と個人の問題」であったのに対して、日本では「個人・家庭・教育」の問題に還元されているわけです。詳しくはWikipediaを再びどうぞ。しかし本来は、社会的な訓練を施す一方、社会の側もそうした個人を受け入れる場所を作らなければ、雇用は促進されません。障害者への自立支援という名で、負担増加を平然と行う日本ならではのすり替えが、ここでも起こっている気がします。

という話は、実は、昨日のブログから、なんとなく繋がる話でした。

そこから今度は、政府のイメージしているところのニートのイメージが、過剰に凶暴化、神へ挑戦する冒涜者としての青年を主人公に、そんな青年のうちにある純粋な問いかけを通して、もう一度世界を見つめる、という感じの映画の話です。上野の一角座にて、荒戸源次郎製作総指揮、花村萬月原作、大森立嗣監督の「ゲルマニウムの夜」を見てきたのでした。

冬の、動物園もすっかり終わったあとの上野は、公園を歩くと、まったく人気無く、静かで、ひんやりとしています。それは、ちょっと怖いほどです。芸大の学期内ならば、学生もいるでしょうが、もうそんな時期ではない*1。この映画は、このシチュエーションに相応しい作品です。一角座という劇場自体、上野の夜の、芸大周辺の、この雰囲気を狙って作られたのではないか、と想像してしまうほどです。

雪に閉ざされた、修道院・孤児院が舞台です。そこで、新井浩文演じる青年は、人を大した理由もなく殺し、逃げてきたのですが、職を得ると、昔から関係のあった神父(石橋蓮司)とホモセクシャルに交わり、シスター(広田レオナ)と交わり、同僚(大森南朋)に暴力を振るい、その罪で、高齢の修道院長(佐藤慶)を挑発するのでした。しかし、その挑発には、この世界は何なのか、生きるとは何なのか、という問いかけも込められている、そんな映画です。

視線の交錯が可能な関係は性的・あるいは暴力的な関係に限られ、それ以外は対象を見失ったまま、茫洋とどこかを見る(ある意味「見失われた」神について語り合うときも、視線は茫洋と投げ出される)という風になっているのですが、主人公の青年が真の意味で性と暴力を謳歌するのではなく、むしろそれは見えざる茫洋たる視線の対象への試みであることを考えると、この映画の寒々とした風景が、意志として選ばれたものだとわかってくるのでした。ただ、その意味では、風景も、新井の欲望も、ややわかりやすい(ごく閉鎖された、純化された場所だから可能な冒涜の限り。それは実際に「限り」がある)ものになっているとは、言わざる得ないのかも知れません。

*1:なお、この日記は12/23に書いていません…もっとあとです