ロード・オブ・ウォー

例によって、この日記は、実際に書かれた日付がでたらめなのですが、せっかく、クリスマス・イブですから、思い出し底部に見た映画について書きます。

監督のアンドリュー・ニコルは、「ガタカ」の監督・脚本家としてデビューし、「トゥルーマン・ショー」「ターミナル」の2作では脚本家として活躍、「ロード・オブ・ウォー」は「シモーヌ」に継ぐ監督第3作です。

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こうして、彼の諸作を振り返ると、ある閉鎖された空間(偽装されたユートピア)をモチーフに、その閉ざされた世界の境界線をどう目指すか(その世界から脱出するにせよ、その世界に侵入するにせよ)という映画作家であったことがわかります。「理想の女優」をCGで作り出してしまうアル・パチーノが、その秘密を守るために四苦八苦する「シーモア」も、幻想としての「アメリカ」を、その境界線において守る(しかし同時に、それが幻想であることを暴き立てる)存在だと言えます。

その、外に向けて閉鎖的であるアメリカは、ある意味では現在のリアルなのでしょうし、そこにおいて、空港(「ターミナル」)や、テレビのカメラの向けられた空間の外(「トゥルーマン・ショー」)、つまり隙間へと滑り込んでいくことで、自らの生を回復するという戦略は、正しいと思います。ただ、おそらくそれだけではおそらくダメで、というのも実際のアメリカの内部には、そうした幻想では間に合わない場所があり、それは、アメリカの閉ざされたユートピアの外、戦場と繋がっているからです。

といって、アンドリュー・ニコルが、アメリカではなく、世界へと、視点を広げた、というのでもありません。むしろ、あくまでアメリカン・ドリームとしての成り上がりの物語であることは、踏まえておかなければならないと思います。兄弟と組んでのし上がる、しかし、その弟は繊細で、結局兄のせいで人生を狂わされてしまう、という、展開そのものは、アメリカのギャング映画の類型であるようにも感じます。

そして、アメリカの内部から、外へ向かって成功のために脱出していこうとする。それは、「ガタカ」であり「トゥルーマン・ショー」を、やはり彷彿させる話です。ただ、ここでは壁を越える物語にはならない。なぜなら、武器商人ニコラス・ケイジの住むリトル・オデッサは、そこが既にユートピアではなく戦場であり、その内部の地下茎をたどれは、イスラエルにも、ウクライナにも通じ、武器が仕入れられ、更に売り先としてのリベリアや、世界中の紛争が起こっている地域があるからなのでした。

しかし、アメリカの生活(成功者としての豊かな)と、その職場としての戦場とのギャップは、非現実的なものも伴っています。世界中に戦場があるのに、アメリカでは、アメリカの夢が達成される、そのギャップです。平和な家庭人と、武器商人が両立するギャップ。そのギャップに、ジャレッド・レト演じるニコラス・ケイジの弟は精神を病むのですが、しかし、そのギャップはアメリカそのものでもあります。アメリカが、世界最大の武器輸出国である以上、アメリカの繁栄は、それら戦場の存在によって、支えられているのかも知れません。しかし、それは隠蔽されているだけなのです。その隠蔽の仕組みに隙間があり、ニコラス・ケイジは、ビジネスチャンスを見出すわけです。一方で、ニコラス・ケイジを逮捕しながらもその罪を問おうとしないアメリカ政府の現実から、目を背けてニコラス・ケイジの元を去るその妻は、いわば「アメリカ」=ユートピアの住人なのだと思うのでした。そこでは「アメリカ」は庇護されて存在していなければいけない。

世界の外側には戦場がある、という現実と、それでもなお(あるいはそれだからこそ)、アメリカは閉鎖域であり続ける。その矛盾/隙間を、ニコラス・ケイジが道案内する映画、ということでしょうか。アンドリュー・ニコルは面白い作家だと思います。ハリウッドの内側において、アメリカの境界線、その外と内について言及し続け、かつそれを、銃弾・CG・テレビカメラといった道具を複雑に用いながら、ある種の視線劇として浮かび上がらせる。「ターミナル」では、空港のガラス1枚が、絶対的に内側と、その外を隔てる境界線になっていたわけです。その、何でもない、しかし強固な境界線の機能。

自国で大量虐殺をしているリベリアの大統領が、家族の願いを聞き武器商人をやめたニコラス・ケイジのところを尋ねてくるシーンは印象的です。もっとも不気味なものと、平穏な家庭が、密接に結びつく。それは、単に恐ろしいものに、安全を脅かされる、というのではありません。自ら、招いたものであるわけです。