ボブ・ディラン「ノー・ディレクション・ホーム」

BGM : 追憶のハイウェイ'61

追憶のハイウェイ61

追憶のハイウェイ61

マーティン・スコセッシが撮った、3時間半ものボブ・ディランのドキュメンタリーは、「ライク・ア・ローリング・ストーン」の歌詞の一部をとり、「ノー・ディレクション・ホーム」というタイトルがつけられています。それは、ボブ・ディランをひとりの放浪者になぞらえているということなのかもしれません。そう仮定して記憶をたどると、作品中時折差し込まれる行き先の見えない曇った雪道の映像が思い起こされます。中西部の、田舎町の出身であるボブ・ディランは、その語りの中でふるさとに雪が降ったとは言わなかったですし、また彼がどこかに行く過程で印象的な雪道があったとも言いません。としたら、これはスコセッシが差し込んだ、放浪人ディランのイメージをめぐる映像だといえそうです。先の見えない雪道を車で進む。希望に満ちたフロンティアではなく、寒々とした雪原であること。しかし、それは決して、クールさや、不毛さの隠喩ではないのだとも思います。むしろ、どう生き延びるのか、という問いかけに近いのかもしれません。先の見えない、寒々とした風景に対して、ある熱を帯びなければ生きていけない。

バウスシアター@吉祥寺では、爆音で上映しています。可能な限り、皆様、吉祥寺で見ましょう!

というと、ややヒロイックに聞こえそうです。しかし、スコセッシはむしろ、ヒロイックなニュアンスは極力押さえようとしているように思えます。スコセッシは、ボブ・ディランを、アメリカ音楽界のカリスマとして描くことに抵抗があったのではないか。それは彼をリスペクトしていないという意味ではありません。被写体としてのボブ・ディランを、そのサバイバルを通して描く、というのは、むしろ、傷だらけの人間的な戦いでなければならなかった。それは、ディランよりも、スコセッシの(映画の)欲望ではないか、と思います。

この映画は、その冒頭において、フォーク・ミュージシャンから、ロック・ミュージシャンへと転進したばかりのボブ・ディランが、さまざまな敵意と支持の混じった評価を受けているコンサート風景の映像から始まり、この冒頭に代表されるディランに対する激しいバッシングについては、映画内で何度も言及されます。ファンだけではなく、マスコミも含めた、ディランを、フォーク・ミュージック、あるいはさまざまな形にはめ込もうとする諸力の中で、ディランは絶えず、飄々としてはいます。型にはまらない、というのが、まずは彼のルールだったのかもしれません。しかし、激しいブーイングを意識しなかったわけではないでしょう。実際、彼は客の評価に対して鋭敏なミュージシャンであった(その本人の言葉とは裏腹に…そのことは他者の証言から伺える)。そこにはある種の戦いがあった。映画の最後は、バイク事故後、ライブに登場しなくなったディランが、8年後ようやく舞台に立つシーンで終わります。

スコセッシは、くどいくらいの時間をかけて、豊かな才能とは別種の人間的なディラン像、ニューヨークで彼が才能を開花する前に、いわばギターの流し的な仕事をしていた、平凡なミュージシャンだったころのことや、たとえば400枚からのレコードを借りっぱなしで返さなかったこと、そのことで、昔の友人にひどく脅しつけられたこと、といったエピソードを挿入していきます。多くの、同時代のミュージシャンの証言の数々が、映画の中で、本来なら中核を占めるはずのボブ・ディランの取材を、主導的な流れとすることを妨げます。ボブ・ディランはゆるぎないイメージ・コントロールされた受け答えをします。それだけ聞けば、彼は天分で時代を変え続けたカリスマ・ミュージシャンにしかなりません。だから、さまざまな迂回路が必要となるのかもしれません。

それは、ボブ・ディランの音楽をどうとらえるか、という問題とも通じます。孤高の存在ではなく、ウディ・ガスリーという特権的なミュージシャンの後継者としてだけでもなく、さまざまなアメリカの音楽と彼との接点を丁寧に描きながら、フォークシンガーとして彼がたつまでの経緯を、スコセッシは描いていきます。さまざまなミュージシャンとの相互的な影響、また社会情勢への敏感さから、彼が独自のスタイルを作り上げ、かつ、多くの人々の支持を集めるのを、彼の天才だけに還元できない問題として、周囲にあった社会的な熱とともに示されます。

その丁寧な前提があるからこそ、フォーク・ミュージック≒社会運動を彼が裏切ったことが、後半の大きなモチーフとなるのです。「裏切った」というのは、当時、フォーク・ミュージック≒社会運動を行っていた人々の眼から見たときの見え方に過ぎません。当時フォーク・ミュージシャンにとって、ロックは堕落であった、というジェーン・バエズの言葉が印象的です。しかし、ボブ・ディランは、フォーク・ミュージック≒社会運動の枠組みに、収まる気はなかった。型にはまらないことは、彼にとって重要だった。そして「ライク・ア・ローリング・ストーン」を歌い始めるわけです。

ボブ・ディランは、一種の感覚器として生きていたということなのだと思います。フォークのムーブメントにおいては、社会情勢と音楽のムーブメント、それからアメリカの音楽史を踏まえて、フォーク・ミュージシャンとしてのスタイルを作り上げていった、しかし、それはその時代の感覚においてであって、ボブ・ディランの延長線上に、別段フォーク・ミュージック≒社会運動は存在せず、しかし、一定の連続性を帯びながら、エレキ・ギターを手に、アル・クーパーのオルガンの音とともに、歌い始めたわけです。そこにも同時代的な相互的影響関係(ディランの曲をカバーしたバンドが大ヒットを飛ばす)も無視できないでしょう。とはいえ、時代に迎合した、というわけでもおそらくない。時代とともに変遷する倫理と、ボブ・ディランという個性的な感覚器との融合/あるいは時代からの逸脱が、逆に、その時代に再度影響を与え、時代を変えていく、ということかもしれません。したがって、それは他者が期待する、時代のなだらかな変容からははぐれていく。

ロック・ミュージシャンへの変容を遂げつつあるディランは、その時代のコンサートにおいて、前半でフォーク、後半でロック、といった、微妙な着地点で演奏をしていたと証言されるわけですから、やはり、孤高の音楽を貫くのではなく、といって、単なる商業主義でもない、音楽的器用さと商業的不器用さ(しかし、商業的不器用さこそが、最終的には差別化される要素となるのでは?)が合致した、個性的な感覚器としてあるのだと思います。この映画を見ると、ボブ・ディランが、抜群のインタビューにおける受け答えの能力を持っていることがわかります。相手の言葉を捕らえ、さまざまに乱反射させながら、自身の像を守ろうとする言葉の運動神経は、むしろコメディアンに近く、彼が自身を「うたって踊れる芸人」だと称する受け答えは、インタビュアーたちの笑いを呼ぶのだとしても、ある意味的を射ているようにも感じられます。ある時代の、ある感覚を代表し、かつそこから逸脱・変化を加えることで、時代を変えもした、そうした芸人として、ボブ・ディランは位置づけられるかもしれません(その過程で、さまざまな軋轢を、しかしあえて挑発として行いながら…社会からの逸脱は、社会への鋭敏な意識を伴って、初めて有効になる?)。もっとも、これはスコセッシのこのドキュメンタリーを見た上でのイメージです。しかし、ディランも、相当なほら吹きであり、また、スコセッシも、相当に強引な歴史家的身振りを好むわけですから、気をつけないと。しかし、ディランの残した実際の音を耳にしながら、その声に、フィクションとしてのスコセッシのディラン像を重ねていくことは、なかなかに刺激的だとも思います。ディランは、おそらくそれも否定するのでしょうけれど。