ディア・ウェンディ / ゾンビーズ

ラース・フォン・トリアーが脚本を書き、トリアーのドグマ95の仲間であり、ドグマ作品の第1作目「セレブレーション」の監督でもあるトマス・ヴィンターベアが監督した「ディア・ウェンディ」は、トリアーとヴィンターベアのアメリカ映画に対する複雑な感情(愛情すべき・殺害すべき対象をめぐる)を感じさせます。それは即ち、銃をめぐる物語となって結実します。少年・少女とも見まごうばかりの線の細いジェイミー・ベルに代表される若者たちは、その弱さを銃とパートナーシップを結ぶことで乗り越えていくのですが、彼らは銃で人を殺す行為を、忌避しながら同時に、「愛する」という隠語で現すのでした。その無意識の選択は映画そのものの機能とも通じます。映画は、銃と車さえあれば可能だ、という言い方は、銃が殺害の道具である/同時に精神に深くかかわるということを指し示すのだと思います。殺人は悪しきことであるにもかかわらず、映画の中で銃はなぜ、かくも魅力的なのか。それは、映画において、距離・視線劇・運動と消失が機能的に重要であり、そこにおいて映画の魅力が最大限に発揮されるからであると同時に、やはり破滅や死の物語自体の持つ力もあるでしょう(前者後者どちらの側面を軽視しても、それぞれの機能がアメリカ映画史で果たした役割を見落とすことになると感じます/またこのことへのアメリカ映画の現在の無自覚が、トリアーとヴィンターベアにこの映画を撮らせたのだと思います)。この映画は、明らかにアメリカ映画史が、ある時代、強く抱えていた危うさへの目配せを感じさせながら、あえて稚拙で幼い「ワイルド・バンチ」等のパロディを映画の中に出現させるのでした。「「西部劇」の死」の稚拙なパロディは、他方で、純粋な青年たちの銃への傾倒において(つまり欲望において、必死に再発見されることによって)、単なる自覚に基づいた醒めたメタフィクションとしての安全さを観客に与えません。「ドッグヴィル」を髣髴とされる小さな炭鉱の町の、小さな市街地において、繰り広げられる稚拙な必死さは、映画という閉ざされた長方形の空間への、危うい自己言及です。銃は、穴をうがつ道具だからこそ、この平面において、最も刺激的な被写体なのだ、ということもできるでしょう。つまり、それ自体が平面に対する自己言及・批判的な道具なのです。しかし、それをあからさまにしようとすればするほど、景色は平面と閉鎖域を露呈しながら寒々としていく。そこには、どこかで映画を圧殺する諸力も、(半ば被害妄想的に)加味されていくのかもしれません。こうして、実にドグマ95のトリアー&ヴィンターベア的な、映画が出来上がるのです。彼らは、どこまでも寒々と抵抗していかなければならない、と思っているかのようです。

ディレクターズカット ワイルドバンチ スペシャル・エディション [DVD]

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クラシカルな銃が、最初は玩具店に放置され、トイガンと勘違いされ入手され、その後青年たちによって再発見されていき、再発見されるだけではなく、手入れされ、訓練されていく…それはどこか、シネマテークでの映画鑑賞をする青年たちに似ており、ならば更に、その幻想はベルナルド・ベルトリッチの「ドリーマーズ」における幻影などともどこかでつながりながら、音楽としては、ゾンビーズをひたすら流し続ける、この映画のスタンスとつながっていくでしょう。(ウェンディという響きから、ネバーランドを思い出してももちろんかまわない)

そんなわけで、BGMはゾンビーズです。「好きさ好きさ好きさ」というアルバム名の企画版を聴いています。1stと勘違いして買っちゃったんだよね(笑)。ああ、ちゃんと1stアルバムがほしいなぁ。

好きさ好きさ好きさ

好きさ好きさ好きさ

T7「I Love You」がやっぱり好きだなぁ。T3「Tell Her No」とかT11「Just Out of Reach」も。ああ、やっぱりかなり好きだ。名盤の2ndも聴こうっと。