キング・コング(1)

ピーター・ジャクソンの「キング・コング」が、2005年度の最後を飾る作品です。見たのは、実はかなり前なのですが、なんというか、やっぱりこれがとりかな、と。期待に違わない、傑作だったのです。

この映画は3部構成でできています。舞台は1933年、大不況の只中。第1部は、映画監督カール・デナム(ジャック・ブラック)が、撮影途中の作品への出資を、映画会社から断られそうになるところから始まります。撮影が開始されながら、主演女優すらラッシュに現れず、ただひたすら動物の映像だけが撮影されている正体不明の映画は、台本すらろくにできていない状態です。カールの監督としての才能は大いに疑わしいのですが、一方で、彼は強い自負と、自身の作り出す映像への愛着を抱いており、まだできていないその映画を大傑作だと信じて、取替えのフィルムを奪い、機材を奪い、逃げられた主演女優の代わりに街中で偶然であった失業中の女優アン・ダロウ(ナオミ・ワッツ)と、金につられて台本を引き受けたもののあまり気乗りしていないドリスコル(エイドリアン・ブロディ)を、強引に船に乗せて、カールが手に入れた海図に従い、地上に残された未開の地、スカル・アイランド(髑髏島)を目指すのです。

以下、ネタばれです。

船が、未開の地に向かう。そこに何があるかはわからないが、そこで映画を撮影しようと決めてしまう。それは、無謀な賭けです。しかし同時に、(映画を見る観客にとっては)その後に来る過剰な出来事…キング・コングの出現への準備時間でもあります(それは予期されることである−リメイクであることも重要でしょう)。その時間は、カールの強い欲望に支えられています。強い欲望があるからこそ、座礁の危機を乗り越え、あらゆる詐術を使って、そこへいこうとする。船と映画という親近性の強い二つのものが、強い欲望に導かれて新たな場所に向かおうとする。そこにはスリリングな緊張がみなぎっています。しかし、それは所詮は、人間の欲望であり、人間社会における欲望であるわけです。

第2部は、言ってしまえば、第1部で予期されたこと(準備してきたこと…その時間)を、更に過剰に裏切るのです。スカル・アイランドは、周縁に人をいけにえとしてささげる蛮族の住む地域があり、高い壁で囲まれた内部には、巨大生物(キング・コングや恐竜だけでなく、吸血蝙蝠、虫や甲殻類)がいる、ここまでは「想定内」でしょう。ただ異なるのは、それらの巨大生物を使っての、怒涛の演出です。原住民によってキング・コングにささげ物になってしまったアンを探しに、島の中へと乗り込んだ船員と映画スタッフ。カールは、細い谷間に走りこんでくる巨大な恐竜に、踏み潰されそうになりながら逃げ惑うシーンに始まり、3頭のT−Rexもどきとキング・コングが、谷に落下し、つたに絡まりながら格闘するシーン(アンを恐竜に食われないようにしつつ)、救出隊が、谷底で巨大な海中生物に襲われて死んでいくシーン、などなど、あまりに危険な、過剰なシーンの数々が、繰り広げられます。シーンシーン考え抜かれたアクション演出が休むまもなく繰り広げられるのでした。それらのシーンは、それまでの船が、映画製作と同期しながら、人間のコントロール下で、欲望を発揮していた状況との対比において、危ういスリルを帯びるのだと思います。

その圧倒的な、周囲にいる人間などただのえさ、それも小さいえさでしかないコントロール不能な状況において、カールは、スタッフが次々に死んでいく中、自身の欲望のため、死んだ人間のためにも映画を完成させるといい、実際島に持ち込んだ機材を、フィルムを守り続けようともします。想定外の事態に、なおも、人間の力を振るおうとする。島の中では、それは無駄な強がりに過ぎません。しかし、カールには誇大妄想がある。自身の、もはや作りえないような映画が、最高傑作であると思い込み、実際に船出してしまうような無謀さ。結局、カールの撮っていた映画は失われます。しかし、それでカールは止まりません。その挫折の代替物として、キング・コング自体を捉えようとするのです。それは映画を奪われたことへの復讐などではありません。巨大で、未知なる物への、映画の欲望を、映画からスクリーンの外へ未知なる物を連れ出してしまう欲望へと転化させること。それは、映画作家の「誇大妄想」であるのかもしれません。そして、それはピーター・ジャクソンらしい欲望です。

その支配への誇大妄想的な欲望。しかし、映画とは、コントロールでも確かにあるのでしょう。エングルホーン(トーマス・クレッチマン)演じる、船長が、ぼろぼろの船を巧みに操舵することと、同時に、動物を生け捕りにする天才であることは偶然ではありません。彼は、そうした巨大な力を、コントロールすることで生きてきている。カールもまた、キング・コングをコントロールしたいと願うのです。それはそれでも映画を作りたい、というプリミティブな欲望に近いのかもしれない。しかし、ビジュアル的にどうでしょう。エングルホーンの精悍さに対して、カール(=ジャック・ブラック)は、それこそ映画として、本当に強者たりえるのか。カールの欲望は、必ずしも立身出世欲だけではない、未知なる物、特異なる物への強い欲望も確かにあるのですが、しかし、立身出世欲とも、人間社会的な建前とも切り離すことはできないのです。過剰なものを、過剰なものとして受け入れるのではなく、コントロールしようとする。または、志の名の下、無理やり支配しようとする。結局はドリストルが言うように、カールは、その愛するものを破壊せずにはいられないのです。

第3部は、ニューヨークにつれてこられたキング・コングの死までを描きます。そこで、結局は、凶暴さはコントロールできない。カールはキング・コング捕獲の物語を面白くするために、彼の撮るはずだった映画の主演男優バクスターカイル・チャンドラー)が、アンを助けたことにし、それを舞台風にアレンジしてキング・コングを見世物化します。しかし真に凶暴な、過剰なものは、安易な物語を付与してコントロールすることができない。その不実から見れば、結局、ジャック・ブラックは、映画=キング・コングを、自業自得で失敗していく存在なのです。キング・コングは鎖を引きちぎり、劇場を破壊し逃げ出すのです。おそらくカールは、本質的に勘違いをしているのです。コントロールされえないから、惹かれるものを、どうしてコントロールしようとするのか、その不可能を理解しないまま欲望する。この点において、カールは映画監督として、おそらく失格なのでしょう。だから、最後には、彼はキング・コングも失うのです。

このように、ピーター・ジャクソンは、結局コントロールできなかった凶暴さを、あえて映画にしている、といえるのかもしれません。そこには、ねじれた格闘があります。「キング・コング」の冒頭近く、CGで作られた市電が、線路をきしませながら通過するショットに、ピーター・ジャクソン監督の「ブレインデッド」冒頭近く、やはりニュージーランドの市電をCGで路上に走らせたショットを思い出しました。「ブレインデッド」は1950年代を舞台としており、1930年代の「キング・コング」とはだいぶ異なるわけですが、「ブレインデッド」が、ヒッチコックの「サイコ」へのオマージュにおいて1950年代でなければならなかったのと同様に、「キング・コング」は、オリジナルの「キング・コング」が作られた時代へと(言葉だけではなく映像として)オマージュが支えられなければいけない。いや、オマージュというか、それは映画史へのピーター・ジャクソンによる挑発であったのだとも思います。飼いならされたジョン・ギラーミンによる「キング・コング」を、映画史から奪い返し、凶暴な、欲望としてのキング・コング復権させること。さらに、それこそが映画の欲望であったことを言及すること(カール=ジャック・ブラックの存在)。しかし、その映画への欲望が同時に、キング・コングを殺してしまうということそうした制御不能な/しかしだからこそ魅惑的なるものへと向かうこと。かつ、それと正面から取り組むこと。それは、あまりの巨大さゆえに、まずはそれが可能かどうかから自問されなければいけない「ロード・オブ・ザ・リング」シリーズを、あえて正面から映像化したピーター・ジャクソンの、あるいは「コリン・マッケシジー もうひとりのグリフィス」における、堂々たる映画史の捏造振り(それは、本当にそういう映画史があってもいい、と思わせるほど見事に、なかったはずの映像の断片を捏造している。贋作こそが本物以上に優れている、というのも、またフィクショナルな言い方ですけれど、贋作であることが無効化されるほどのクオリティで、ニュージーランドのグリフィスが作り上げた映像を捏造しているのです)をみせるピーター・ジャクソンの、欲望なのです。いわば、カールは、ピーター・ジャクソンの写し絵であると同時に、その失敗において、その挑戦を浮上させる存在なのです。

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続きます。