キング・コング(2)

昨日の続きです。

しかし他方で、調和の取れた愛の物語、キング・コングとアンとドリストルの三角関係の映画としても、この映画は成立しています。そこにおいて、むしろ映画は、完全な調和を帯びてコントロールされるともいえます。それは、どこか遠く、ヒッチコックの「めまい」を想起させます。ジェームズ・スチュワートならぬキング・コングが、1度目はスカル・アイランドの自身が住む高所の岩場から、2度目はエンパイア・ステイと・ビルディングの屋上から、2度にわたり、愛する女性を失うという形で反復される三角関係の物語の構成から、練りに練られたものです。

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以下、ネタばれです。

エンパイア・ステイと・ビルディングから2度目の落下するのは、美しいドレス姿に変わったアン=ナオミ・ワッツではなく、彼女は落下しそうなところをキング・コングに救われ、代わりにキング・コングが落下していくわけですが、その落下が、巨大な地響きとも、衝突とも無縁に、ただ死への静かな落下でなければならなかったのは、ピーター・ジャクソンヒッチコックを深く理解しており、かつ、この映画が、愛の映画だからなのです。エンパイア・ステイト・ビルディングの屋上で、ドリストル=エイドリアン・ブロディとアンが抱き合う、三角関係の結末。結局は、どれほど愛してもキング・コングは、そのはじめから不可能な愛を求めており、しかし、だからこそどこまでも純粋でもあるわけです。その終わりにおいては、死は静かな消失でなければならないし、落下=消失は、それ自体が死でもあるのです。キング・コングという質量から解き放たれて戦う、躍動する、愛の動物に対するリスペクトとしても、この落下に対しての演出はあると思います。

それにしても、冬の公園の凍った池の上を、アンを手のひらにのせたキング・コングが、すべり遊ぶシーンの美しさはなんなのでしょう。唐突に舞踏的になるこのシーンは、アメリカのミュージカル映画史とも呼応しながら、一種の性的交わりの隠喩でもあるわけで、その昂揚は、アン=ナオミ・ワッツの嬌声とともに思い出されるべきなのです。そして、1933年という舞台設定、ドリストルが、愛する対象を奪い合う相手としてキング・コングと繰り広げるカーチェイス、そして、美しい美女との逃避行の末、権力によって人間社会になじめない魅惑的な生物が圧殺されるというラストまでを見れば、この映画はフィルム・ノワールでもあるのです。ただ、そのどの枠組みにも収まりきれない、巨大な体躯が、調和とともに違和感を絶えず生じさせながら、この映画の危うさを継続させているのだと思います。(第3部のアクションシーンも、どれもこれもすばらしいのです。都市という閉鎖域を、あっけなく破壊していく、その腕力のすばらしさ…鎖を破壊して逃げ出すではなく、その閉ざされた劇場という建物自体も破壊しながら外に飛び出るシーンには、この「映画」の目指すものが象徴されてもいます。アンを愛の対象として認めながら、それ以外は人を人と思わない態度で、金髪美女を捕まえては、アンではないと知ると、平然とほおり捨てる、愛を知りながらもやはり非人間的な凶暴さもすばらしい。愛の物語においてコントロールされることと、その凶暴さは、同時に存在しうるのです。)

そういえば、スカル・アイランドに乗り込む船員たちが数々の銃を手に持って進むシーンなどは、冒険映画というよりは、一種の戦争映画のようでもありました。映画史を踏まえたうえでそれを攪拌し、ありえなかった歴史を過去に植え込みながら、ハリウッド映画史すべてをその内部にはらんでしまおうとするかのような、凶暴な意思が、「キング・コング」のピーター・ジャクソンにはあるように思えます。そもそも、1933年という舞台設定は、オリジナルの「キング・コング」にとって、同時代的な空想であり、そのときの最新鋭たるエンパイア・ステイト・ビルディングをその舞台として選んだわけです。しかし、2005年、その時代にあえて舞台を設定して、「キング・コング」を作り直すという欲望。それは、その時代なら、キング・コングがいた、という欲望ではなく、その時代になら、「キング・コング」という映画が作れた、ということへの欲望だろうと思うのです。それを、あえて今日、1933年のニューヨークを再現しつつ映像化する。ねじれた、強い欲望として。

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愛の映画だなぁ。それにしても。複数の意味でね。