アメリカの友人

案の定、帰省中に2キロほど体重がアップし、その後も拡張された胃袋に順調に食べ物を放り込み続けました。まずいです。そろそろ節制しないといけません。お正月DVDシリーズは今日で最後です。ヴェンダースの「アメリカの友人」です。

ヴィム・ヴェンダースセレクション [DVD]

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太陽がいっぱい」(1960年)のトム・リプリーが、アラン・ドロンから17年後、デニス・ホッパーへと姿を変えるとき、リプリーはカウボーイ・ハットをかぶった、中年男になっていた。しかし、世界にはまだ、ニコラス・レイが生きており、サミュエル・フラーが生きており、ジャン・ユスターシュも生きていた(ダニエル・シュミットは生きていて当然だから、映画の中では真っ先に撃ち殺された)。そんな、ヴェンダースが「美しい映画」を撮りえた/しかし同時にある終わりに面してもいた、けれど幸福だった時代の作品です。

太陽がいっぱい [DVD]

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先んじて言ってしまえば、しかし不幸なる時代のヴェンダース、それがいつから始まったとはいいがたいものの、少なくとも今日苦闘を続けるヴェンダースを、私は支持しています。なぜなら、ニコラス・レイも、サミュエル・フラーも、ユスターシュもいない場所で、ヴェンダースは映画を取っているからです。もちろん、こうした言い方はいんちきなのですが、しかしいくらかは真実を含むと考えます。そうした映画作家がすでにいなくなってしまった場所で、なお映画を取り続けるときにはどういう映画が可能なのか。という厄介な問題に、少なくともヴェンダースは正面から取り組んでいるとはいえそうだからです。実際、デニス・ホッパー演じるトム・リプリーには、私は憧れの心を隠せない。ああいう悪党になりたい。しかし、「ランド・オブ・プレンティ」のジョン・ディール演じるポールに憧れることは難しい。しかし、ともに自分自身を見失いがちの現代のカウボーイではなかったか。ただ、ジョン・ディールは、デニス・ホッパーのように他者との(たとえ奇妙であれ)友情を結ぶには、あまりにすべてを見失いすぎていたのだし、そしてそれはつまり、どこを探しても眼帯をかけ暴れ、おどけるニコラス・レイも、マフィアで映画監督のサミュエル・フラーも、傷口にそっと絆創膏をあてがうユスターシュも存在しない、ということなのです。だから、天使は、新しく、自分たちの貧しさの中から、生み出すしかない(もちろん、それは「ランド〜」のラナ役であるミシェル・ウィリアムズが魅力的ではない、という意味ではない)。

太陽がいっぱい」のアラン・ドロンにとって完全犯罪は、愛の問題としても自らの手で殺人を犯したうえで、挑戦されるべきであったのに、「アメリカの友人」のデニス・ホッパーは、より完全な犯罪、自らは手を下さず、他者に手を下させることを思いつくわけです。しかし、その選択は異常といえば異常です。「目がいい」(と、贋作画家を演じるニコラス・レイデニス・ホッパーはいう)彼は、贋作の絵を見破る力を持った、腕のいい額縁職人のブルーノ・ガンツ(役名はヨナタン)に、白羽の矢を立てるわけです(ガンツはホッパーの持ち込んだ絵を贋作と見破る)。なぜガンツだったのか。オークション会場でたまたまホッパーに冷たく当たったガンツに対する、意趣返しであった、と、後にホッパーの口から語られます。しかし、本当にそうなのか。ホッパーとニコラス・レイが示す奇妙な友情関係のように、ホッパー、つまり1977年のトム・リプリーにおいて犯罪は、友情の問題でもあった。ホッパーは、彼の友人足りえる「目を持った」人間を、そのパートナーに選んだのではないか、と思うのです。ただ、おそらく犯罪者であるホッパーは、犯罪を通してしか、人とは結ばれえない。もう、ただ一人で立つには、アラン・ドロンのように美しくはない。

以下、ネタばれです。

ガンツは、病で余命いくばくない状態であり、しかし医師からそれを聞かされていなかった。ホッパーは、たまたまそのことを耳にして、妻子のために金をほしがるだろうガンツを、殺しの仲介人に教え、自分はまったく関係のないかのようにしてガンツと付き合い始めます。最初に友人の振りをしてガンツに病状の深刻を知らせるメールをしたのもホッパーでしょう。仕掛けは確かにホッパーが考えた。しかしとはいっても本来、彼はガンツと交流を持つ必要などないのです。犯罪は、勝手に行われ、放っておけばよい。しかし、一度目の殺人に成功したガンツを、仲介人が2度目の殺人、しかも無謀で、ガンツ自身が命を落としかねない列車内での殺人に向かわせたとき、ホッパーはなぜかそれを助けに行ってしまいます。

その過程として、ガンツとの交流があったことは事実です。しかし、友情や良心の問題として、トム・リプリー=ホッパーは向かったのか?それは、やはりホッパー自身の欲望の問題だったのではないか。それは、ガンツを犯罪者=友人にするホッパーの欲望の中にあった。そこには、見失われた自己と他者との、危うい手探りがあったようにも思います。

では、ガンツはどうだったのか?ガンツもまた、彼自身の欲望といえるかどうかはともかく、たとえばコートの下に銃を隠して、ダニエル・シュミットを追い続ける、あるいは射殺後に、登りのエスカレーターを駆け下りるまどろっこしさの、その時間が象徴する、ある隙間に彼は入り込んでいます。犯罪=友情と、普通の家庭人としてのこれまでの生き方と、その両方を行き来する隙間。その隙間は、ラストの、ホッパーを置き去りにして逃げ出すあの躁的なスピード、そして反対車線を越え、堤防へと車を乗り上げていく、逸脱にも象徴されています。パリやウィーン、ハンブルグといった地名に対して、しかし実際に映されている風景は、いかに特異な隙間としてあることか。たとえば、列車という空間が、死体を扉から放り捨てるとき(それが犯罪として素人の応急処置的な方法であることによって、より効果的に)、ありえない隙間として、そこに現れます。それは、魅惑的だったのではないでしょうか。少なくともガンツは、命の恩人であると同時に、彼を犯罪者となる罠にかけたホッパーに対して、恩人だから感謝するのでも、罠にかけたから恨むのでもない、心の動きで、惹かれているように見えます。

隙間へ。そのために悪をなそう。私はこの映画のデニス・ホッパーに憧れます(万引きひとつ出来ないけど・笑)。車を爆発させて、おどけてみせるホッパーは、その世界の隙間に打ち上げられた花火を、友人に見せたかったのです。