ディック&ジェーン 復讐は最高!
私は見逃しているのですが、一部で評判の高かった「ギャラクシー・クエスト」のディーン・パリゾットが監督、ジム・キャリーが主演した「ディック&ジェーン 復讐は最高!」を見てきました。
ジム・キャリーは、オーバー・アクションなのにどこかさびしげな芸風が更に増してきたように思います。個人的には好意的に見ているのですけれど、「マスク」のジム・キャリ−が好きな人には物足りないのかもしれません。私個人は「エターナル・サンシャイン」「トゥルーマン・ショー」あたりのジム・キャリーが贔屓です。あ、でも「ふたりの男とひとりの女」も好き。
エターナル・サンシャイン DTSスペシャル・エディション [DVD]
- 出版社/メーカー: ハピネット・ピクチャーズ
- 発売日: 2005/10/28
- メディア: DVD
- クリック: 34回
- この商品を含むブログ (298件) を見る
- 出版社/メーカー: パラマウント ジャパン
- 発売日: 2005/10/21
- メディア: DVD
- クリック: 9回
- この商品を含むブログ (43件) を見る
- 出版社/メーカー: 20世紀 フォックス ホーム エンターテイメント
- 発売日: 2005/04/28
- メディア: DVD
- クリック: 3回
- この商品を含むブログ (13件) を見る
ところで、この作品、露骨にエンロン問題とかを題材にしているのですね(映画の最後のテロップで、協力企業名としてエンロンとかワールドコムが出てくるのは笑います)。業績好調という偽りの情報で株価を吊り上げ、裏で代表取締役本人がストック・オプションで得た株式を売りぬいて多額の利益を確保、しかし一方で経営は破綻しており、給与の一部を株式で支払われていた社員たちは、突然の倒産になすすべもない…という筋書きは、まさしくエンロンの事件そのものです。ただ、どうしても政府との癒着とか、トップの悪事だけが取りざたされるこの問題で、ジム・キャリーは、倒産後ホワイトカラーのエリートを自負していた人々の末路のほうに関心を寄せ、演じて見せるわけです。正直、演出自体はまったりしていて、それほど面白いとは思えないのですが、郊外の高所得者層の住む家で、家財道具を売り払いながら、電気代も払えないくらい落ちぶれていく様子は、とても「好景気」をうたわれているアメリカとは思えない光景で、まるで日本のよう、とか思ってしまうのでした。
とはいえ、実際は、ヴェンダースが「ランド・オブ・プレンティ」で示していたように、アメリカは、ひどい階級社会にはなっていて、失業者数も多く、先進諸国中、貧困層の割合がトップの国なんですけれどね。ただ、ハリウッド映画では、そうした状況はなかなか描かれなかった、というだけです。そういえば、先日、アメリカでパラサイト・シングルが増加しているという記事を目にしました。そこにも失業者問題が絡んでいます。市場絶対主義と回帰願望。かなり安易ですが、この二つの結びつきは、今日のアメリカ像として、たやすく納得してしまいかねないものです。
以下、致命的なネタばれです。
男たちの大和(2)/ ALWAYS 三丁目の夕日(3)
ある種の閉ざされた政治/美意識が、支配的な状況を作る(映画における大ヒットだけが、そうした状況を作っているとは思いません。むしろそれは、一症候であるにすぎない)として、問題は、単純にであれ、それに抵抗する諸力が、やはり存在しないのは不健康だ、という言い方もできると思います。しかし、見渡してみて、どこに抵抗勢力があるのか。私たちは、それを縊り殺してきたのではないか。
アメリカとの良好な外交関係が築ければ、中国とも、韓国とも、しまいには上手くいく、という小泉純一郎の国際政治意識の低さにはほとほとあきれるのですが、それは、彼のわかりやすいロジック、オール・オア・ナッシングの援用の一つに過ぎず、むしろ問題は、それとわかっていてなぜ、彼を首相にさせておくのか、直接民主主義ではないにしても、それをとめられたはずの国民の側に、多くの問題はあるでしょう。つまり、ここでも問われているのは、抵抗勢力はどこにあるのか、ということです。
冷静に考えれば、民主主義なのですから、旧弊な抵抗勢力はノー・サンキューとはいっても、偉大なんだか失言だらけなのだか良くわからないイエス・マンしかいない状況は、かなりまずいわけです。健全に、言論を闘わせる勢力が必要。小泉チルドレンって、どこかオウム的なわけですけれど、そうしたことに対して美意識において否定する人々が、さすがにもう少しいてもいいはずだ、と、今年を振り返って思うのでした。それは「男たちの大和」や「ALWAYS 三丁目の夕日」といった映画が、映画として面白いかどうかではなく、バランス感覚として、それらとは違うものがもう少しあっていいはずだ、ということです。
と、そういえば、青山真治監督の「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」がまもなく公開ですね。まあ、ちゃんとあるのに、ないない、とだけ言うのも間違っていますね。
ところで。三十年後も同じ美しい夕日があるだろう、と。昭和33年年末の薬師丸ひろ子が、昭和63年に投げ返すのは、その翌年早々の昭和天皇の死だったのかもしれません。というのこそが、まさしくフィクションですが、何かを懐かしむことは、とかくアイロニーと繋がりやすいわけです。しかし、たとえば「プレイタイム」のジャック・タチが見せる「痛さ」を思い返すと、やはり、アイロニーは、覚悟を伴わないといけないのだと思います。結果的にアイロニーになっている、というのでは、やはりなにか弱い。「ALWAYS…」は、そういう意味でのアイロニーも狙ってはいないと思いますが…。
- 出版社/メーカー: 角川書店
- 発売日: 2004/02/27
- メディア: DVD
- 購入: 1人 クリック: 15回
- この商品を含むブログ (33件) を見る
「男たちの大和」での天皇、という問題も面白いですね。実は、ほとんど重視されていない。天皇のため、お国のため、の、天皇が、どこかに消えてしまった映画になっています。日本国の再生のために、自覚的に敗れる、という男たちの犠牲的精神を肯定するためには、戦後、人間宣言してしまう天皇のことには、なるほど言及しづらかったでしょう。
…堀北真希は、それにしてもかわいいですね。そして演技達者でもある。小雪も良いかった。「ALWAYS 三丁目の夕日」は、役者の演技は、吉岡秀隆も含めて安心して見られました。薬師丸ひろ子は最近、何を見てもいいですね。あと、子役のセレクトも良かったと思う。
「ALWAYS 三丁目の夕日」はテレビが初めて家庭にやってくるのを描いているわけですけれど、ちょっと違和感があったのは、この映画の中で、映画館が出てこないこと。テレビがない家庭のほうが圧倒的だったこの時代、映画は非常に重要なメディアだったし、日常生活に映画は深くかかわっていました。なぜ、それが出てこないのだろう?不思議だ。東宝スコープのテロップだけ、映画の冒頭についていたけれど。昭和33年ごろは、おそらく邦画全社がスコープに切り替わったころではなかったか?記憶があいまいですけれど。
ALWAYS 三丁目の夕日(2)
昨日の続きです。
「ALWAYS 三丁目の夕日」では、映画の冒頭に、長回しのシーンがあります。CGを駆使して昭和33年、1958年当時の町並みを再現し、その中を子供たちが模型飛行機を追いかけて走り続け、細い下町の路地裏を抜けて、建造中の東京タワーの見える大通りまで駆け出てくるのです。見ながら、左幸子が「飢餓海峡」で駆け抜けた戦後直後の東京の風景を思い出し、もちろん時代は異なるわけですから、その性質が異なるのは仕方がないにしても「路地」というものへのイメージのずれを、違和感として感じ取るのでした。私は、思い返す限り模型飛行機で遊んだことはないので、それがどれだけ見事に空を飛ぶのかは知りません。ただ、凧で遊んだことは何回かあります。そして、凧をめぐる記憶とは、最後は飛んでいってしまうか、電線や木に絡まるか、ともかく、そう鮮やかな記憶ではない。それは貧しい子供時代の記憶しかないということかもしれません。とはいえ、あの狭い路地を、模型飛行機が何一つの障害物もなく、飛び越えていくことへの違和感、いや、正しくは、そんなところで飛ばしたら、一発でどこかのお宅の屋根の上に乗ってしまうだろう模型飛行機を、平気で路地の只中で飛ばし始める子供たちへの違和感が、あったのでした。
それは、やはり、一つの方向性をあらかじめ与えられた美意識の世界です。とはいえ、だから問題がある、というのではありません。そうした違和感も、また映画にアクセスする上で、機能する要素だからです。たとえば、小津安二郎の、演出のシュールさを思い返してもいいでしょう。ただ小津の美しさは、「ALWAYS 三丁目の夕日」など歯が立たない美しさですが、これは比べるほうが酷というものです。
しかし、実はシュールさの塊である小津に対して、「ALWAYS…」は、むしろ違和感を、現代において失われた時代の何かが再現されている(ノスタルジーを刺激す)部分にだけ絞っており、その世界をどれだけ違和感を感じさせず滑らかにすり抜けていくかに意識が向けられている(模型飛行機は、それ自体は違和感を発揮しますが、その姿勢において、この映画全般の意志をあらわしている)という指摘は、有効かもしれません。それは小津という固有名詞の問題ではなく、映画の作られた時代の問題であるといえそうです。現在から、振り返って昭和33年代を描くことそれ自体が、何か冒険的であり、挑戦的なことなのだ、それを見事に再現できることそれ自体がすごいのだ、という自負なのだと思うのです。
正直、そうした自負も、映画史を踏まえたうえでそれを攪拌し、ありえなかった歴史を過去に植え込みながら、ハリウッド映画史すべてをその内部にはらんでしまおうとするかのような、凶暴な映画、ピーター・ジャクソンの「キング・コング」などとくらべると、やや、おとなしい印象はぬぐえないのですが、それでも、昭和33年を再現する、という意味では、「ALWAYS…」は一定の成功を収めていると感じます。
とはいえ、完成しつつある東京タワーを映し出していく映画が、最後に完成した東京タワーを見上げるところで終わる、というのは、やはり収まりが良すぎる気がするのですけれどね。何かを一致して見上げる、という行為を、無数のずれの連鎖の後におくか、それとも可能な限り取り結ばれた調和の後におくか。たとえば、小津の「小早川家の秋」とこの映画を並べて見て、そこで一つのものを見上げるという行為がどのように映画になっているかを比べてみると、面白いかもしれません。
- 出版社/メーカー: 東宝
- 発売日: 2004/01/30
- メディア: DVD
- クリック: 27回
- この商品を含むブログ (63件) を見る
男たちの大和(1)/ ALWAYS 三丁目の夕日(1)
2005年度末、日本映画では、「男たちの大和」と「ALWAYS 三丁目の夕日」という(それぞれ異なる意味ではありますけれど)非常に贅沢なつくりのふたつの作品が、ともにヒットを記録しました。その贅沢さにはひとつの方向性があり、ヒットにつながった一定の法則があるように感じます。
両者に共通するのは、ある傾向を帯びた単一の視点において歴史やそこにおける人間を捉え、その徹底によってフィクショナルに美化された生を描こうとすることです。単一であることは、必ずしも間違ってはいませんが、映画なら映画において、映画の原理に単一であろうとすることと、映画の外部の規定に映画を馴らしてしまうこととで引き比べたとき、後者のほうは、やはり一定の慎重さが必要だと、私は感じています。
たとえばジョン・フォードを思い出します。ゴダールの有名な言葉にもあるとおり、フォードは政治的には右側の映画作家である一方、しかし涙なくしては見られない。フォードの映画には、映画ならではの運動、映画ならではの空間が、間違いなく存在しており、息づいているからです。つまり、ある意味で映画は、政治とは無縁に存在します。それは「ある意味」正しい。そうした映画の原理主義は、まず肯定しておきたい。
- 出版社/メーカー: 20世紀 フォックス ホーム エンターテイメント
- 発売日: 2005/06/03
- メディア: DVD
- この商品を含むブログ (2件) を見る
しかし、逆に、映画外部の政治/美意識が、決定的な力をおびて映画の美しさを規定することもあり、それはフォードにおいても例外ではなく、実際フォードは、そうした政治/美意識との結びつきを否定せず、むしろ積極的に取り入れてもいたわけです。
ただ、この場合問題は、そうした映画外部の政治/美意識が、映画の可能性を削減してしまうことでしょう。
そこで、私としては、二つことがポイントとして浮上します。一つは、「男たちの大和」や「ALWAYS 三丁目の夕日」では、その美化(一方は「特攻的犠牲精神の美化」、もう一方は「ノスタルジックな失われた共同体や家族の美化」)を、「映画」に依拠させることができているかどうか。もう一つは、状況論的に、ある政治/美意識を帯びた単一な視点に抵抗する、複数の視点ないしは、やはり単一であれ無邪気な疑問の視点が在するかどうか、です。
「男たちの大和」で、敵爆撃機の攻撃により、ぼろぼろに壊れていく大和と、血まみれの肉片になっていく搭乗員を描いている一連の戦闘シーンは、単調ではありますし、フォードのようにそこに映画のオルタナティブな力が息づいているとは到底いえないと感じますが、しかし、そこには映画の力がやはりあると思います。日本映画ですからバジェットには限界があるとしても、一定以上の金をかけ、創意工夫しながら、巨大戦艦大和を作り出し、それを破壊する。そうした醍醐味を記録することは、なるほど映画だと思います。そうした映像の迫力は、(しかし?)特攻精神とは国を守るための男たちの決意である、という美化されたフィクショナルな物語の前提の上に展開され、また最後にもその着地点へと模索されていきます。「プライベート・ライアン」のスピルバーグであるならば、良い意味で、破綻させてしまいそうなそうした政治/美意識への集約を、何とか成立させるために蒼井優の可憐さや、鈴木京香の敬礼があるのだとしたら、それは映画の可能性に寄り添っているのか、それとも削減しているのか。
- 出版社/メーカー: パラマウント ジャパン
- 発売日: 2005/10/21
- メディア: DVD
- クリック: 7回
- この商品を含むブログ (26件) を見る
いや、それでも蒼井優はかわいいです。
もうひとつ、「男たちの大和」の難しさは、残された人間がどう生きるか、という問題を盛り込まなければならなかった分、政治的に純粋になれなかったところかもしれません。美意識は、さまざまな留保によって、制限される。死と生をどうにかつくろわなければ、戦争賛美になってしまう、という危惧から自由になれない。映画において殺し合いは魅惑的だ、と開き直れない。しかし死に向かって無謀な覚悟を決めることは素敵です。たとえば「ワイルドバンチ」など、何度みても「憧れを抱く」のです。
- 出版社/メーカー: ワーナー・ホーム・ビデオ
- 発売日: 2005/07/29
- メディア: DVD
- この商品を含むブログ (9件) を見る
ハリー・ポッターと炎のゴブレット
ハリー・ポッターシリーズ、すべて劇場で見ています。
マイク・ニューエルという監督の作品は、実は「ダンス・ウィズ・ア・ストレンジャー」だけしかみておらず、しかもそれすらまったく記憶に残っていないものですから、この映画だけで判断してしまうのは、いささか不適切だと思うのですけれど、なんというか、非常に不思議な省略の多い作品であったように感じられました。たとえば、ハリーのライバルたちの活躍がほとんどなく、むしろ、ライバルたちは華やかに登場した割には、いまひとつ役に立たず、代わりにハリーの入浴シーンなどが、たいして意味もなく延々と続いたりするのでした。
主演のダニエル・ラドクリフは、もうだいぶ成長してきていて、うっすらすね毛、胸毛が生えかかっており、入浴シーンを映すことがハリー・ポッターファンのハートをどれほどつかむことができるのかはわかりませんが、ともあれ、違和感がありました。
ただ、逆に、その奇妙なジャンプの仕方、たとえば物語を危うくするような登場人物たちの葛藤などは大して描かれず(つまりドラマ志向ではなく)、結末に向かって、飛び石をはねねていくかのように、エピソードが、必ずしも脈略なく連なっていき、ピンチだピンチだといいつつ、結局はポッター自身の努力とは無縁のところで物事が解決していく、その宿命的ともいえる物語の展開が、とても面白いとも感じたのでした。これはいささかアイロニカルな見方であることは認めますけれど。
たとえばハリー・ポッターの初恋らしい感情や、ハーマイオニー(エマ・ワトソン)の少女から女性への変化といった心の機微は、少しだけ描かれても、どこか決定的に欠落もしています。それらは、要素であって、中身ではない。独立した情報であって、連鎖する情報ではない、という感じなのです。
そして、結果的にはすべてがハリー・ポッターという存在の周りを回る騒動に過ぎない、ということになります。最後には、ハリー・ポッターの圧倒的な血筋のパワーですべてを撃退していく。この結末が見えているからこそ、綿密に積み上げられていく物語など、無意味なのかもしれません。その自覚があるから、すべての情報を断片化し、そこらに散りばめてしまうほうが、むしろ「ハリー・ポッターの世界」を堪能する上で理にかなっているのではないか、と想像します。映画的に鮮やかなアクションシーンが積み重ねられるわけでもありません。むしろ、ただハリー・ポッターに密着したカメラにすぎない。だからたいして重要ではないシーンも、奇妙に長くなったりします。それはラディカルではありません。ただ、その徹底ゆえに、面白いと思ったのです。まるで、誰も彼もが物語を知っている前提で、やや偏ったダイジェストを作っているかのよう、というと伝わるでしょうか。運動会で、自分の子供だけに向け続けたカメラワークの、超豪華版、というか(笑)。
Death Note
大場めぐみ・小畑健の「Death Note」9巻を購入しました。このコミックスは、ノートに名前を書いただけで、人の命を奪う力を得た、つまり全能的な力を手に入れた少年・ライトの物語です。当初私は、どのようにしてその全能感によって滅んでいくのか、という物語になるだろうと予想したのですが、まったく勝ち目のないゲーム(一方はゲームを熟知しており、一方はまったく熟知していない状態で同じ土俵に立たされるから)であるはずだったのに、対等に戦う同年代の少年エルの出現により(その意味では、エルはライトの数段上の知性の持ち主であった)、全能感を維持する戦いがずっと続くことになりました。現在は更に、ゲームのためのゲームとして、全能感とはなにか、という問い直しには行かないまま、全能感(それは圧倒的な知性/強者の一種の隠喩かのよう)をライトとその敵が競う形になっています。
- 作者: 小畑健,大場つぐみ
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 2005/12/02
- メディア: ペーパーバック
- 購入: 1人 クリック: 37回
- この商品を含むブログ (423件) を見る
読んでいるうちに、このコミックスの面白さは、全能感とは何かを問い直さないという病にある気がしてきました。
全能感といえば「ドラえもん」ですが(笑)、どこでもドアとか、もっとすごいのはもしもボックスですが、これらは、もっともっと有効に、さまざまなことに活用できるはずなのです。しかし、のび太もドラえもんも、日常のくだらないことにしか使わない。全能的な能力がそこにあるのに、それを活用せず、その仕方それ自体も考えようとしないわけです。更に、最後には多くは道具の使い方に失敗して、ろくでもない目にあう。つまりはゲームに興じる。そこには全能感に対する憧れと、裏腹の自然な距離感があるように思います。
これに対して、ライトはのび太ではないですから、上手に道具を使おうとします。それは結果的に、全能感との距離を微妙にします。とはいえ、滞りなく道具が使えてしまえば、人の命を奪う道具ですから、無感動な凡庸さに陥るか、良心との葛藤に悩むか、どちらにしても、全能感を持つ自分の問題が浮上します。しかし、それは適度な敵の存在によって、回避され続ける。つまり、全能感は延命され、批判の対象となっていかないのです。
意識的な全能感の延命。そこに一種の(露骨な)引力を発生し、それにおいてこの漫画は続きうるのではないか。もしかしたらライトはダーク・ヒーローとはいえないのかもしれません。ダークな勝ち組がいる、という言い方ではどうでしょう。そこに読者をひきつける、引力があるのではないか、と。
ある意味で、今日の欲望の一形態かもしれません。私はそこに組しませんが、それでもなお、たとえば、1円の株式を買い占めて一人で何十億も設けるような、そうしたゲームにおける、勝ち組のあり方と、そこに向けられる羨望と欲望があるということは、やはり想像できてしまいます。
いや、勝った人々を中傷したいのではないですよ。それはそれで、機を見るに敏だったわけで、運+才覚です。ただ、私は、たぶんそうしたことに対して機を見るに敏にはなれない、それは金儲けがしたくないからではなく、欲望の方向も資質も、そっちの方向に向かっていない、だから見逃すほかないだろう、というだけなのです。だから仕方がない。別の豊かさを目指そうと。
全能感の微妙さは、別の豊かさ、という言葉を失念させるところにあるのかもしれません。全能感をどこまでもくじいていく「ドラえもん」の秀逸さは、言い換えればのび太の、極端な情けなさによっています。あの情けなさこそが、純粋なゲームとしての豊かさをぎりぎり保つのかもしれない。しかし、そこから一歩踏み出して、全能感ともう少し戯れようとすると、とたんに難しいことになる。その難しいことに「Death Note」は踏み込んでいます。現代的な読者の要請にしたがって…なのかもしれません。
だとしたら、「Death Note」の閉塞感を打ち破るには、ライトののび太化しかないのかもしれませんね。まずは、丸いふちのめがねからスタートです。
MOONLIGHT MILE / BROTHER ALI
BGM : BROTHER ALI「SHADOWS ON THE SUN」
- アーティスト: Brother Ali
- 出版社/メーカー: Rhymesayers
- 発売日: 2004/05/27
- メディア: CD
- この商品を含むブログ (1件) を見る
気合いだー、というかけ声は、私には今ひとつ響かないけれど、先天性色素欠乏症(アルビノ)として生まれ(そのために様々な労苦を重ねたと思われる)、イスラム教を信仰するBROTHER ALIのMCは、なかなかに響くのです。
太田垣康男の「MOONLIGHT MILE」の10巻と11巻を購入、話をけっこう忘れていたので全巻を読み直してみました。このマンガは、やはり男性的なマッチョな欲望に支えられているが故に、健康さを維持できる(そこの本質にある、マザコン的な心性も含め)ところがあって、私は、あまりそこに組みしたくないって気持ちがあるため、ときどき胃がもたれるような感覚を読みながら感じるのですけれど、それでも読めてしまうのは、21世紀は宇宙というフロンティアへ向かう夢の世紀である、というロマンチックな物語と、21世紀も20世紀同様に戦争とくだらない権力争いの世界であり、そこでろくでもないことが起こるという(やはり月並みではあるが、それなりに説得力のある)物語を、上手に織り交ぜて、大河的な月面開発の物語を構築していく構成力に依るのだと思います。
- 作者: 太田垣康男
- 出版社/メーカー: 小学館
- 発売日: 2005/11/30
- メディア: コミック
- 購入: 2人 クリック: 9回
- この商品を含むブログ (42件) を見る
そして前者の健康な物語が、後者の物語の文脈の中で挫けないことを描いていく。いや、後者の物語の中に取り込まれ、汚い作業に手を染めるのであれ、月の世界に向かう人間たちのすべてを、クライマーとして、行為の良い悪いの判断とは別に肯定するところがいいのかな。例えテロリストであれ、月という未開の最前線に、命を賭け、強い意志を持ってきた存在を肯定する。それは、正しい態度だとは思わないし、ときによっては危険だと思う。けれど、まあ、好もしい態度だと(全部ではなくとも)思えるのです。
あ、それで思い出した。危険な地に、敢えて向かっていく人々ってことで。イラクの日本人人質事件ってありましたね。「自己責任」って言葉を流行らせた、あれです。国家が、国民の勝手にしたことなど知らないと、犯罪者でもない、むしろ被害者の、善意の人々を切り捨てる方便とした言葉に、数多くの人間がうなずき、人質となった人々の家族に、ひどいバッシングをしたのでした。絶望的なそうした多数者が確かにいます。もうあれから1年半以上経つのですけれど、状況は何も変わっていません。むしろ、9/11に起こったことを考えると、悪くなっているのかもしれません。小泉純一郎の言う「小さい政府」とかね、笑ってしまう。それは、つまり弱い人を切り捨てる政府なんですよ。
この件については、高橋源一郎さんの書いた文章が秀逸だったのを覚えています。ネット上で読めるオリジナルはもうないようです。でも「高橋源一郎の人生相談」で検索すると、見つけられるかも…。