女系家族

三隅研次監督の「女系家族」を、テレビで見ました。久しぶりに見直したのですが、やっぱりこれは傑作ですね。DVDも出ています。

女系家族 [DVD]

女系家族 [DVD]

山崎豊子の原作を、依田義賢が脚本化、端正な構成の作品です。3代続いた女系家族、婿養子の父親の死に際し、京マチ子の長女ら三姉妹が激しい相続争いをする、腹黒い番頭役の中村雁治朗はこの機に私腹を肥やそうと狙っている、そこに亡き主人に愛人の若尾文子がいたことがわかり、彼女の妊娠が判明する…という話です。財産争いの決着へと向かう過程は、省略も鮮やか、複雑な人間関係も簡潔に演出しているのですけれど、そうした台本・構成の妙ではなく、三隅の映画の恐ろしさは、時折その画面の中に現れる、恐ろしい風景なのだ、と、いつも思います。どこか荒れ果てた、恐ろしい風景が、時折現れる。それは、妊娠中、体を悪くした若尾文子を、無理やり診察しようとした長女と次女、それから欲深い三女の代理人のおばが、嫌がる若尾に無理やり診察させるだけではなく、診察中に無表情で部屋へと乗り込んでくる一瞬のショットの殺伐(若尾の開いた膝の間がさっと閉じる、ひどく生々しいショットへとつながる)、その、女性でありながら芸者上がりの愛人など人とも思わない身振りの恐ろしさです。そのシーンは、小さい若尾の家に出入りする前後の、青い大きな外車が路地を出入りするショットの、奇妙な違和感とつながりながら、この映画の風景としての残酷をよく表しています。

以下、致命的なネタばれです。

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ボブ・ディラン「ノー・ディレクション・ホーム」

BGM : 追憶のハイウェイ'61

追憶のハイウェイ61

追憶のハイウェイ61

マーティン・スコセッシが撮った、3時間半ものボブ・ディランのドキュメンタリーは、「ライク・ア・ローリング・ストーン」の歌詞の一部をとり、「ノー・ディレクション・ホーム」というタイトルがつけられています。それは、ボブ・ディランをひとりの放浪者になぞらえているということなのかもしれません。そう仮定して記憶をたどると、作品中時折差し込まれる行き先の見えない曇った雪道の映像が思い起こされます。中西部の、田舎町の出身であるボブ・ディランは、その語りの中でふるさとに雪が降ったとは言わなかったですし、また彼がどこかに行く過程で印象的な雪道があったとも言いません。としたら、これはスコセッシが差し込んだ、放浪人ディランのイメージをめぐる映像だといえそうです。先の見えない雪道を車で進む。希望に満ちたフロンティアではなく、寒々とした雪原であること。しかし、それは決して、クールさや、不毛さの隠喩ではないのだとも思います。むしろ、どう生き延びるのか、という問いかけに近いのかもしれません。先の見えない、寒々とした風景に対して、ある熱を帯びなければ生きていけない。

バウスシアター@吉祥寺では、爆音で上映しています。可能な限り、皆様、吉祥寺で見ましょう!

というと、ややヒロイックに聞こえそうです。しかし、スコセッシはむしろ、ヒロイックなニュアンスは極力押さえようとしているように思えます。スコセッシは、ボブ・ディランを、アメリカ音楽界のカリスマとして描くことに抵抗があったのではないか。それは彼をリスペクトしていないという意味ではありません。被写体としてのボブ・ディランを、そのサバイバルを通して描く、というのは、むしろ、傷だらけの人間的な戦いでなければならなかった。それは、ディランよりも、スコセッシの(映画の)欲望ではないか、と思います。

この映画は、その冒頭において、フォーク・ミュージシャンから、ロック・ミュージシャンへと転進したばかりのボブ・ディランが、さまざまな敵意と支持の混じった評価を受けているコンサート風景の映像から始まり、この冒頭に代表されるディランに対する激しいバッシングについては、映画内で何度も言及されます。ファンだけではなく、マスコミも含めた、ディランを、フォーク・ミュージック、あるいはさまざまな形にはめ込もうとする諸力の中で、ディランは絶えず、飄々としてはいます。型にはまらない、というのが、まずは彼のルールだったのかもしれません。しかし、激しいブーイングを意識しなかったわけではないでしょう。実際、彼は客の評価に対して鋭敏なミュージシャンであった(その本人の言葉とは裏腹に…そのことは他者の証言から伺える)。そこにはある種の戦いがあった。映画の最後は、バイク事故後、ライブに登場しなくなったディランが、8年後ようやく舞台に立つシーンで終わります。

スコセッシは、くどいくらいの時間をかけて、豊かな才能とは別種の人間的なディラン像、ニューヨークで彼が才能を開花する前に、いわばギターの流し的な仕事をしていた、平凡なミュージシャンだったころのことや、たとえば400枚からのレコードを借りっぱなしで返さなかったこと、そのことで、昔の友人にひどく脅しつけられたこと、といったエピソードを挿入していきます。多くの、同時代のミュージシャンの証言の数々が、映画の中で、本来なら中核を占めるはずのボブ・ディランの取材を、主導的な流れとすることを妨げます。ボブ・ディランはゆるぎないイメージ・コントロールされた受け答えをします。それだけ聞けば、彼は天分で時代を変え続けたカリスマ・ミュージシャンにしかなりません。だから、さまざまな迂回路が必要となるのかもしれません。

それは、ボブ・ディランの音楽をどうとらえるか、という問題とも通じます。孤高の存在ではなく、ウディ・ガスリーという特権的なミュージシャンの後継者としてだけでもなく、さまざまなアメリカの音楽と彼との接点を丁寧に描きながら、フォークシンガーとして彼がたつまでの経緯を、スコセッシは描いていきます。さまざまなミュージシャンとの相互的な影響、また社会情勢への敏感さから、彼が独自のスタイルを作り上げ、かつ、多くの人々の支持を集めるのを、彼の天才だけに還元できない問題として、周囲にあった社会的な熱とともに示されます。

その丁寧な前提があるからこそ、フォーク・ミュージック≒社会運動を彼が裏切ったことが、後半の大きなモチーフとなるのです。「裏切った」というのは、当時、フォーク・ミュージック≒社会運動を行っていた人々の眼から見たときの見え方に過ぎません。当時フォーク・ミュージシャンにとって、ロックは堕落であった、というジェーン・バエズの言葉が印象的です。しかし、ボブ・ディランは、フォーク・ミュージック≒社会運動の枠組みに、収まる気はなかった。型にはまらないことは、彼にとって重要だった。そして「ライク・ア・ローリング・ストーン」を歌い始めるわけです。

ボブ・ディランは、一種の感覚器として生きていたということなのだと思います。フォークのムーブメントにおいては、社会情勢と音楽のムーブメント、それからアメリカの音楽史を踏まえて、フォーク・ミュージシャンとしてのスタイルを作り上げていった、しかし、それはその時代の感覚においてであって、ボブ・ディランの延長線上に、別段フォーク・ミュージック≒社会運動は存在せず、しかし、一定の連続性を帯びながら、エレキ・ギターを手に、アル・クーパーのオルガンの音とともに、歌い始めたわけです。そこにも同時代的な相互的影響関係(ディランの曲をカバーしたバンドが大ヒットを飛ばす)も無視できないでしょう。とはいえ、時代に迎合した、というわけでもおそらくない。時代とともに変遷する倫理と、ボブ・ディランという個性的な感覚器との融合/あるいは時代からの逸脱が、逆に、その時代に再度影響を与え、時代を変えていく、ということかもしれません。したがって、それは他者が期待する、時代のなだらかな変容からははぐれていく。

ロック・ミュージシャンへの変容を遂げつつあるディランは、その時代のコンサートにおいて、前半でフォーク、後半でロック、といった、微妙な着地点で演奏をしていたと証言されるわけですから、やはり、孤高の音楽を貫くのではなく、といって、単なる商業主義でもない、音楽的器用さと商業的不器用さ(しかし、商業的不器用さこそが、最終的には差別化される要素となるのでは?)が合致した、個性的な感覚器としてあるのだと思います。この映画を見ると、ボブ・ディランが、抜群のインタビューにおける受け答えの能力を持っていることがわかります。相手の言葉を捕らえ、さまざまに乱反射させながら、自身の像を守ろうとする言葉の運動神経は、むしろコメディアンに近く、彼が自身を「うたって踊れる芸人」だと称する受け答えは、インタビュアーたちの笑いを呼ぶのだとしても、ある意味的を射ているようにも感じられます。ある時代の、ある感覚を代表し、かつそこから逸脱・変化を加えることで、時代を変えもした、そうした芸人として、ボブ・ディランは位置づけられるかもしれません(その過程で、さまざまな軋轢を、しかしあえて挑発として行いながら…社会からの逸脱は、社会への鋭敏な意識を伴って、初めて有効になる?)。もっとも、これはスコセッシのこのドキュメンタリーを見た上でのイメージです。しかし、ディランも、相当なほら吹きであり、また、スコセッシも、相当に強引な歴史家的身振りを好むわけですから、気をつけないと。しかし、ディランの残した実際の音を耳にしながら、その声に、フィクションとしてのスコセッシのディラン像を重ねていくことは、なかなかに刺激的だとも思います。ディランは、おそらくそれも否定するのでしょうけれど。

ディア・ウェンディ / ゾンビーズ

ラース・フォン・トリアーが脚本を書き、トリアーのドグマ95の仲間であり、ドグマ作品の第1作目「セレブレーション」の監督でもあるトマス・ヴィンターベアが監督した「ディア・ウェンディ」は、トリアーとヴィンターベアのアメリカ映画に対する複雑な感情(愛情すべき・殺害すべき対象をめぐる)を感じさせます。それは即ち、銃をめぐる物語となって結実します。少年・少女とも見まごうばかりの線の細いジェイミー・ベルに代表される若者たちは、その弱さを銃とパートナーシップを結ぶことで乗り越えていくのですが、彼らは銃で人を殺す行為を、忌避しながら同時に、「愛する」という隠語で現すのでした。その無意識の選択は映画そのものの機能とも通じます。映画は、銃と車さえあれば可能だ、という言い方は、銃が殺害の道具である/同時に精神に深くかかわるということを指し示すのだと思います。殺人は悪しきことであるにもかかわらず、映画の中で銃はなぜ、かくも魅力的なのか。それは、映画において、距離・視線劇・運動と消失が機能的に重要であり、そこにおいて映画の魅力が最大限に発揮されるからであると同時に、やはり破滅や死の物語自体の持つ力もあるでしょう(前者後者どちらの側面を軽視しても、それぞれの機能がアメリカ映画史で果たした役割を見落とすことになると感じます/またこのことへのアメリカ映画の現在の無自覚が、トリアーとヴィンターベアにこの映画を撮らせたのだと思います)。この映画は、明らかにアメリカ映画史が、ある時代、強く抱えていた危うさへの目配せを感じさせながら、あえて稚拙で幼い「ワイルド・バンチ」等のパロディを映画の中に出現させるのでした。「「西部劇」の死」の稚拙なパロディは、他方で、純粋な青年たちの銃への傾倒において(つまり欲望において、必死に再発見されることによって)、単なる自覚に基づいた醒めたメタフィクションとしての安全さを観客に与えません。「ドッグヴィル」を髣髴とされる小さな炭鉱の町の、小さな市街地において、繰り広げられる稚拙な必死さは、映画という閉ざされた長方形の空間への、危うい自己言及です。銃は、穴をうがつ道具だからこそ、この平面において、最も刺激的な被写体なのだ、ということもできるでしょう。つまり、それ自体が平面に対する自己言及・批判的な道具なのです。しかし、それをあからさまにしようとすればするほど、景色は平面と閉鎖域を露呈しながら寒々としていく。そこには、どこかで映画を圧殺する諸力も、(半ば被害妄想的に)加味されていくのかもしれません。こうして、実にドグマ95のトリアー&ヴィンターベア的な、映画が出来上がるのです。彼らは、どこまでも寒々と抵抗していかなければならない、と思っているかのようです。

ディレクターズカット ワイルドバンチ スペシャル・エディション [DVD]

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クラシカルな銃が、最初は玩具店に放置され、トイガンと勘違いされ入手され、その後青年たちによって再発見されていき、再発見されるだけではなく、手入れされ、訓練されていく…それはどこか、シネマテークでの映画鑑賞をする青年たちに似ており、ならば更に、その幻想はベルナルド・ベルトリッチの「ドリーマーズ」における幻影などともどこかでつながりながら、音楽としては、ゾンビーズをひたすら流し続ける、この映画のスタンスとつながっていくでしょう。(ウェンディという響きから、ネバーランドを思い出してももちろんかまわない)

そんなわけで、BGMはゾンビーズです。「好きさ好きさ好きさ」というアルバム名の企画版を聴いています。1stと勘違いして買っちゃったんだよね(笑)。ああ、ちゃんと1stアルバムがほしいなぁ。

好きさ好きさ好きさ

好きさ好きさ好きさ

T7「I Love You」がやっぱり好きだなぁ。T3「Tell Her No」とかT11「Just Out of Reach」も。ああ、やっぱりかなり好きだ。名盤の2ndも聴こうっと。

秘密のかけら

アトム・エゴヤンの「秘密のかけら」を見ました。あまり得意な作家ではないのですが、面白く見られたのは、この映画のある種のいかがわしさが好きだからです。つまり、観客にどこかほんとうの姿を明かそうとしないところですね。

ラリー(ケヴィン・ベーコン)とヴィンス(コリン・ファリル)の人気コメディアン2人組は、何故人気絶頂のなかで解散したのか?彼らの宿は后のホテルで死んでいた、ジャーナリスト希望の金髪美女モーリーン(レイチェル・ブランチャード)を殺したのは誰か?1972年、ロサンゼルスで、自伝のインタビュー取材を許諾したヴィンスに、野心的な女性ジャーナリスト(やはり金髪の美女)であるカレン(アリソン・ローマン)は、15年前の殺人事件の謎をぶつけようとする。そんななか、ポリオウィルスのワクチンキャンペーンの番組に出演してから、ラリーをずっと憧れの人としてきたカレンは、偶然ラリーと出会い、男女の関係になってしまう。彼女は、次第に事件の核心へと近づいていくが…という話です。

以下、致命的なネタばれです。

この映画では、1957年と1972年の2つの時空間だけではなく、実は、その2つの時空間を回想している現在、という時間があることを、見落とすことが出来ません。そしてその時点では、カレン自身の言葉が正しければ、この事件が明るみになって傷つく人は一人もいない、ということになっています。つまり、ラリーも、死んだモーリーンの母親も、死んでいる。そこでの謎解きである、ということです。

すると、この映画の謎解きが、決定的に物証を欠いていると気づきます。それは、劇中で「ある」とされながら、一度も登場しない、殺されたモーリーンが記録したという録音テープです。その録音テープが「ある」からこそ、ラリーの告白の文章は真実になりうる、しかし、それがなければ、「誰でもでっち上げられる」というのはカレン自身の台詞です。

他方で、劇中で古びたオープンリールデッキを、父の形見だと言ってカレンが使うシーンがあります。金髪で、ジャーナリストを目指す、若くセクシーな女性。彼女は、ある意味モーリーンと、相似形を結びます。それは偶然の符合なのか?モーリーンは、ラリーとヴィンスに愛され、そして、カレンの推理では、ラリーのマネージャーに殺された。しかし、果たしてほんとうにそうなのでしょうか?

カレンは、ラリーが、モーリーン殺害の翌朝に番組のなかで、こっそりと語った台詞を覚えています。彼は彼女に「すまなかった」と謝った。カレンは、当時はそれが何を意味するかはわからなかったでしょう。しかし、調査を始めて、モーリーン殺しの犯人の疑いをかけたとき、何故、その台詞を、すぐに思い出さず、彼女は「彼が殺したとは思いたくなかった」と繰り返しながら調査を続けるのか。そこには、調査ではなく、物語がどこかになかったか、と思うのです。

つまり、すべてはカレンの野心的な嘘であったなら?ということですね。実際には、その検証にはあまり意味はありません。ただ、疑うだけでいいのです。すると、映画が、答えへとたどり着く物語としてではなく、答えなどもたない、ただ何も明かさない、映画の中で出てくるオレンジの木のように、深く記憶に関わりながら、同時にその記憶をまったく語り出そうとしないものとして、そこにあることに気づくのです。

大掃除 / PET

映画化を切望するコミックがあるので、サンタクロースにお願いです(笑)とかいいながら、この日記も、ずっと後日に書かれています。

ペット 1 (ビッグコミックス)

ペット 1 (ビッグコミックス)

明らかに打ち切られた感のある終わり方で、読者としてはまったく納得できないのですが、三宅乱丈の「PET」は、非常に優れた作品だと思います。一種のテレパシー能力を用いて、人の記憶の改ざんや精神支配を可能にする能力者たちを描いた作品です。誰もがその精神の中にもつ「ヤマ」と呼ばれる安定した美しい場所と、つらい思いや澱みをためておく「タニ」と呼ばれる場所をいじくることで、彼らは他者の精神を操作するのですが、それは万能の力と言うよりも、自分自身があまりに感じやすく傷つきやすい、その自らの精神のバランスをどう取っていくかという危険な精神の綱渡りと裏腹なものとしてあります。あまりに感じやすい(それは能力と裏腹で、あまりに感じやすいために極度の自閉症のような症状となる)がために廃人同様だった人間を、ヤマを与えることで人間生活が営めるようにする能力者。その結果、ヤマ親となった能力者と深くつなぎ止められてしまう、そこに生まれる深い愛情が、逆に切り離されることで深い絶望と憎しみに変わり、悲劇を作り出す。そうした愛憎が、この作品の主軸となっています。

精神の世界が、変転し、美しい場所が、グロテスクな汚物だらけの場所にけがされていく、しかし、それは愛情による避けがたい衝動としての破壊であり、と同時に、取り返しのつかない致命的な失敗でもある。複雑な映像のイメージ、愛憎、美しい青年たち、面白いと思うのですけれどね。ああ、そういえば、昔「ナイトヘッド」って流行りましたね(笑)。

私としては、ヒロキはNEWSの山下智久で、林さんは是非、豊川悦司に演じていただいて、ああ、司は竹ノ内豊がいいなぁ、とか、いろいろ思うのでした(笑)。

さ、大掃除です。と、嘘を言いました。もう終わりました。でも25日に大掃除したのです。

ロード・オブ・ウォー

例によって、この日記は、実際に書かれた日付がでたらめなのですが、せっかく、クリスマス・イブですから、思い出し底部に見た映画について書きます。

監督のアンドリュー・ニコルは、「ガタカ」の監督・脚本家としてデビューし、「トゥルーマン・ショー」「ターミナル」の2作では脚本家として活躍、「ロード・オブ・ウォー」は「シモーヌ」に継ぐ監督第3作です。

ガタカ [DVD]

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トゥルーマン・ショー [DVD]

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こうして、彼の諸作を振り返ると、ある閉鎖された空間(偽装されたユートピア)をモチーフに、その閉ざされた世界の境界線をどう目指すか(その世界から脱出するにせよ、その世界に侵入するにせよ)という映画作家であったことがわかります。「理想の女優」をCGで作り出してしまうアル・パチーノが、その秘密を守るために四苦八苦する「シーモア」も、幻想としての「アメリカ」を、その境界線において守る(しかし同時に、それが幻想であることを暴き立てる)存在だと言えます。

その、外に向けて閉鎖的であるアメリカは、ある意味では現在のリアルなのでしょうし、そこにおいて、空港(「ターミナル」)や、テレビのカメラの向けられた空間の外(「トゥルーマン・ショー」)、つまり隙間へと滑り込んでいくことで、自らの生を回復するという戦略は、正しいと思います。ただ、おそらくそれだけではおそらくダメで、というのも実際のアメリカの内部には、そうした幻想では間に合わない場所があり、それは、アメリカの閉ざされたユートピアの外、戦場と繋がっているからです。

といって、アンドリュー・ニコルが、アメリカではなく、世界へと、視点を広げた、というのでもありません。むしろ、あくまでアメリカン・ドリームとしての成り上がりの物語であることは、踏まえておかなければならないと思います。兄弟と組んでのし上がる、しかし、その弟は繊細で、結局兄のせいで人生を狂わされてしまう、という、展開そのものは、アメリカのギャング映画の類型であるようにも感じます。

そして、アメリカの内部から、外へ向かって成功のために脱出していこうとする。それは、「ガタカ」であり「トゥルーマン・ショー」を、やはり彷彿させる話です。ただ、ここでは壁を越える物語にはならない。なぜなら、武器商人ニコラス・ケイジの住むリトル・オデッサは、そこが既にユートピアではなく戦場であり、その内部の地下茎をたどれは、イスラエルにも、ウクライナにも通じ、武器が仕入れられ、更に売り先としてのリベリアや、世界中の紛争が起こっている地域があるからなのでした。

しかし、アメリカの生活(成功者としての豊かな)と、その職場としての戦場とのギャップは、非現実的なものも伴っています。世界中に戦場があるのに、アメリカでは、アメリカの夢が達成される、そのギャップです。平和な家庭人と、武器商人が両立するギャップ。そのギャップに、ジャレッド・レト演じるニコラス・ケイジの弟は精神を病むのですが、しかし、そのギャップはアメリカそのものでもあります。アメリカが、世界最大の武器輸出国である以上、アメリカの繁栄は、それら戦場の存在によって、支えられているのかも知れません。しかし、それは隠蔽されているだけなのです。その隠蔽の仕組みに隙間があり、ニコラス・ケイジは、ビジネスチャンスを見出すわけです。一方で、ニコラス・ケイジを逮捕しながらもその罪を問おうとしないアメリカ政府の現実から、目を背けてニコラス・ケイジの元を去るその妻は、いわば「アメリカ」=ユートピアの住人なのだと思うのでした。そこでは「アメリカ」は庇護されて存在していなければいけない。

世界の外側には戦場がある、という現実と、それでもなお(あるいはそれだからこそ)、アメリカは閉鎖域であり続ける。その矛盾/隙間を、ニコラス・ケイジが道案内する映画、ということでしょうか。アンドリュー・ニコルは面白い作家だと思います。ハリウッドの内側において、アメリカの境界線、その外と内について言及し続け、かつそれを、銃弾・CG・テレビカメラといった道具を複雑に用いながら、ある種の視線劇として浮かび上がらせる。「ターミナル」では、空港のガラス1枚が、絶対的に内側と、その外を隔てる境界線になっていたわけです。その、何でもない、しかし強固な境界線の機能。

自国で大量虐殺をしているリベリアの大統領が、家族の願いを聞き武器商人をやめたニコラス・ケイジのところを尋ねてくるシーンは印象的です。もっとも不気味なものと、平穏な家庭が、密接に結びつく。それは、単に恐ろしいものに、安全を脅かされる、というのではありません。自ら、招いたものであるわけです。

ゲルマニウムの夜 / ニートとフリーター

最近、「ニート」「フリーター」といった言葉の用法が、政府によって、ゆがめられている、という話を聞きました。たとえば、「フリーター」ですが、Wikipediaから転載すると(フリーターでサーチしてください)、このように、内閣府厚労省それぞれで規定されています。

  • 内閣府:15歳以上35歳未満の学生・主婦でない者のうち、パート・アルバイト・派遣等で働いている者及び、働く意志のある無職の者(2003年版国民生活白書より)。
  • 厚生労働省:15歳以上35歳未満の学校卒業者で主婦でない者のうち、パート・アルバイトで働いている者及び、パート・アルバイトで働く意志のある無職の者(2003年版労働経済白書より)。

しかし、35歳未満の学生・主婦でない、という定義はいかがなものなのか?「正社員以外の非正規雇用形態(アルバイト、パートタイマー、人材派遣など)で生計を立てている人」(前述Wikipedhiaより)全般が、本来のフリーターではないのか。そうすることで、単に非正規雇用の人々の数を統計上少なくしているのではないか、と、まず感じます。さらに、実際には正規雇用を求めても叶えられない人々も多くいるわけですが、政府はフリーターの問題を、学生でも主婦でもない「ぶらぶらしている若者たちの問題」にして、国の責任を曖昧にしているのではないか、とも思います。その意味では35歳というラインは有効です。しかし、実際、非正規・不安定雇用の労働者=フリーターの増加は、市場主義のおける弱肉強食を推し進めたここ数年間の、国内におけるリストラ・雇用転換とリンクしていて、かつセーフティネットの施策にも、(相変わらずの箱物行政以外には)雇用拡充施策もまともにない、この国の現状の反映でもあります。もちろん、年金問題を踏まえ、35歳という年齢の線引きになっているという反論もあると思います(60歳まで25年、年金を払わないと受給できない、そのぎりぎりの年齢)。しかし、ことの本質は、失業率と非正規雇用の増加、それに伴う、世帯ごとの収入水準の中央値が、たとえば2004年から2005年にかけ20万も下落しているという実態でしょう。東証は、景気回復ににぎわったとうそぶいていますが、こうまで個々の生活水準が低下していく中、国内需要がいっそう冷え込んでいったときに、どうするのか…。

ニート」も、どこか侮蔑的・差別的な、若者の病理の問題とされています。英国で社会問題化されたときのNEET(Not in Employment, Education or Training)は、「社会と個人の問題」であったのに対して、日本では「個人・家庭・教育」の問題に還元されているわけです。詳しくはWikipediaを再びどうぞ。しかし本来は、社会的な訓練を施す一方、社会の側もそうした個人を受け入れる場所を作らなければ、雇用は促進されません。障害者への自立支援という名で、負担増加を平然と行う日本ならではのすり替えが、ここでも起こっている気がします。

という話は、実は、昨日のブログから、なんとなく繋がる話でした。

そこから今度は、政府のイメージしているところのニートのイメージが、過剰に凶暴化、神へ挑戦する冒涜者としての青年を主人公に、そんな青年のうちにある純粋な問いかけを通して、もう一度世界を見つめる、という感じの映画の話です。上野の一角座にて、荒戸源次郎製作総指揮、花村萬月原作、大森立嗣監督の「ゲルマニウムの夜」を見てきたのでした。

冬の、動物園もすっかり終わったあとの上野は、公園を歩くと、まったく人気無く、静かで、ひんやりとしています。それは、ちょっと怖いほどです。芸大の学期内ならば、学生もいるでしょうが、もうそんな時期ではない*1。この映画は、このシチュエーションに相応しい作品です。一角座という劇場自体、上野の夜の、芸大周辺の、この雰囲気を狙って作られたのではないか、と想像してしまうほどです。

雪に閉ざされた、修道院・孤児院が舞台です。そこで、新井浩文演じる青年は、人を大した理由もなく殺し、逃げてきたのですが、職を得ると、昔から関係のあった神父(石橋蓮司)とホモセクシャルに交わり、シスター(広田レオナ)と交わり、同僚(大森南朋)に暴力を振るい、その罪で、高齢の修道院長(佐藤慶)を挑発するのでした。しかし、その挑発には、この世界は何なのか、生きるとは何なのか、という問いかけも込められている、そんな映画です。

視線の交錯が可能な関係は性的・あるいは暴力的な関係に限られ、それ以外は対象を見失ったまま、茫洋とどこかを見る(ある意味「見失われた」神について語り合うときも、視線は茫洋と投げ出される)という風になっているのですが、主人公の青年が真の意味で性と暴力を謳歌するのではなく、むしろそれは見えざる茫洋たる視線の対象への試みであることを考えると、この映画の寒々とした風景が、意志として選ばれたものだとわかってくるのでした。ただ、その意味では、風景も、新井の欲望も、ややわかりやすい(ごく閉鎖された、純化された場所だから可能な冒涜の限り。それは実際に「限り」がある)ものになっているとは、言わざる得ないのかも知れません。

*1:なお、この日記は12/23に書いていません…もっとあとです