ストリート・オブ・ノーリターン
正月に家族で愛の映画を見ようと思って、サミュエル・フラーの「ストリート・オブ・ノーリターン」を見たのでした。ゴダールの「アワーミュージック」を見て、見たくなった、というのもあります(映画の終わり、「天国」と題された一連のショットのなかで、朽木に座った男が、「ストリート・オブ・ノーリターン」の原作本を読んでいるのです)。
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私はこの映画を、ゴダールとの連想の中で、フラーの「天路歴程」として見たのでした。
- 作者: ジョン・バニヤン,John Bunyan,竹友藻風
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1991/03
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- 作者: ジョン・バニヤン,John Bunyan,竹友藻風
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といっても、実はジョン・バニヤンの「天路歴程」という本自体は読んでいないのです。私が読んだのは「若草物語」、4姉妹の巡礼ごっこなのでした。天の都を目指して、人生の重荷を背負いながら歩む、という物語を、美しい4姉妹が興じること。…そういえば、ジョージ・キューカーの「若草物語」も、私は見逃したままです。
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とはいえ、キャサリン・ヘプバーンが演じるジョーを勝手に頭に思い浮かべ、ゴダールの「アワーミュージック」におけるオルガのイメージを隣に並べ、「ストリート〜」におけるキース・キャラダイン演じるマイケルと、通じ合わせながらながら、愛に生きること、人生の重荷に耐えること、といったことを思うのです。そこでイメージされる「天国」は、あるいは「天国」に向かうための「重荷」は、もちろん清教徒が正しくイメージするものとはだいぶ異なるのだと思いますが。
そもそもフラーにとって、無謀な地を進むことが映画であるわけです。問題は、その確信を、どこまで映画にしていく覚悟があるか、です。その結果が、狂気であるとしても、その場所を突き進むこと(「ショック集団」)。あるいはスキンヘッドをスクリーンにさらす狂った目をした女の突進であること(「裸のキッス」)。
以下、ネタばれです。
堂本剛の夜明けまでしんどい / 赤い影
「堂本剛の正直しんどい」は、数少ない、お気に入りのテレビ番組で、といっても、基本テレビはあまり見ないので、見逃すことも多々あるのですが、時々、深夜に、放映にあたると、得した気分になるのでした。
その特番が、今テレビで放映中です。「堂本剛の夜明けまでしんどい」(なお、この日記の日付は1/4ですが、実際は1/5深夜に書かれています)。アンガールズ、キングコング、小池栄子、中川家、南海キャンディーズ、レイザーラモンHG、若槻千夏らのゲストとともに、夜明けまで、生放送で何時間も、内輪のパーティ(のようなもの)をだらだら見せるだけの番組のようです。たとえばさっきは、視聴者への受けとか全く無視で、ゲストがずっとカラオケに興じているシーンが続いていました。ただ緩く緩く時間が過ぎていきます。
最近のTVのバラエティは、芸人が観客を笑わせるのではなく、芸人が勝手に遊んで、それを観客が笑うだけだ、という友人の言葉を思い出します。かなり的を射た意見ではないでしょうか。ただし、とは言ってもテレビである以上、視聴者を引きつけ、一定時間以上継続して見させなければいけないので、だらだらと遊ばせたりはせず、生放送のバラエティであっても、短いコーナーの区分けの中で、むしろ時間に追い立てられるようにしながら、番組を構成するのが常であるわけです。その刺激の連鎖は、そこにおける芸人が遊んでいるだけ、という一種の緩さに犯されず、笑いとしての鮮度を保つ方法論であるのだと思います。
「堂本剛の正直しんどい」という番組には、バラエティ番組の一見自由に遊ぶ芸人たちを取り囲む枠組みの不自由さを嫌うようなところがもとからあり、枠組み自体をむしろ緩くすることで(たとえば堂本剛自身がカメラを回したり、ゲストとの会話が上手く運ばないことが前提とされた仕掛けがいくつかあったり)、他のバラエティとは異質の空気をかもし出しているのですけれど、「堂本剛の夜明けまでしんどい」は、深夜の、しかも正月番組=長時間生放送というフォーマットを得て、そのテレビの喧騒が内面にたたえる本質的な無意味さ、芸人たちが遊んでいるだけのだらしなさ、ただただ緩いだけの緩さに賭けているように思います。そうして、多くの番組の中でスピーディな展開に見え無くなっている、テレビのある本質的な緩さ自体にアクセスしようとしているのだ、というのは、いささか、物語化が過ぎているかな(笑)。とはいえ「堂本剛の夜明けまでしんどい」であっても、テレビである以上、一定のイベントは必要で、場所場所でゲームがあったり、コントがあったりするわけです。ただ、そうしたゲームやコントがあっても、それが番組の持続にはならない。それに対する、ゲストたちの緩い会話だけが、中心を持たず、ひたすら続きていくところに好感を持ちます。
ですから、この番組を楽しむためには、本質的にはテレビを直視しない、ということが求められているのかも知れません。むしろ、時折視線を投げるくらいでいい。そうして、見る価値のないもの、緩さ、それ自体を受け入れることで、テレビを楽しむこと。テレビという、本質的な緩さ(それに耐える「しんどさ」)と、ここで向き合うわけです。
そこで、この番組が、だらしない会話の中でもそれぞれ一瞬で鋭いトピックを作れる、しかし、一方で明石家さんまのように、その会話の運動神経で緩い場に無理矢理中心を作り出すほどの腕力もない、ゲスト布陣であることも効果的です。あまりの番組のぐたぐたぶりに、ややあせりのあるゲストたちに対して、これでいいのだとバカボンのパパ的泰然を決め込んでいる堂本剛の確信犯ぶりが良いと思います。そうした自覚は、私は評価に値すると思うのでした。
さて、ニコラス・ローグの「赤い影」を見ました。
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この不安に揺れ続ける、ヴェネチアを背景とした美しい映画は、ある恐ろしい現実と裏腹に存在しています。
以下、致命的なネタばれです。
魔太郎がくる!! / 白い肌に狂う鞭
ある意味、「魔太郎がくる!!」は、裏ハリー・ポッターなのではないでしょうか。「いじめっ子=悪」を「許さない(コノウラミハラサデオクベキカ)」といって、「メガネのいじめられっ子」が、魔力で敵を倒していく。ほら、あらすじ同じだし(強引)。
強く影響を受けたコミックのひとつですね。復讐すること、そのための手段をもつこと、それを実行すること。ただし、その手段の特異さにおいて、復讐が欲望となっていくこと。復讐を欲望するのではなく、復讐が欲望となっていく。それも、1972年の連載開始当時の時代背景、80年代に向けて、ある種の凡庸さを準備しているような時代において、ああした、奇妙な軽さを帯びた(矮小ですらある)禍々しい欲望を、幾度も幾度も繰り返してみせること。そこから、欲望の矮小さと、その中で欲望する可能性(復讐の特異さにおいて)を見出すこと。いや、それは、可能性というにはとても貧しいものなのだけれど。その息苦しさも含めた時代性も魅力だったのかも知れません。
魔太郎がくる!! vol.1 (アイランドコミックスPRIMO)
- 作者: 藤子不二雄A
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他方で、豊かな欲望のあり方、どこまでも欲望が、あでやかな豊かさとして花開いていくような映画も、心の健康のために見ます。マリオ・バーヴァの「白い肌に狂う鞭」は、心が癒される、まさにあでやかな映画です。しかし、その欲望は、あまりにも豊かさを目指されるあまり、過剰さを生み出す装置において、特異です。
旧家の跡を継ぐはずだった長男のクリストファー・リーは、非道を尽くし、召使いの孫娘を自殺に追い込んだ過去のため勘当され、老いた父親は、リーの弟に家督を継がせると決めており、弟と愛し合っている、同居している美しい従妹との仲を裂いて、リーの元婚約者であるダリア・ラヴィと弟の結婚も決まっていた。そこに、数年ぶりに帰宅するリー(馬に乗って、颯爽と。悪の微笑みを浮かべ、長身のみで不吉に立つ)。そして、被虐願望のあるラヴィが浜辺で一人いるところを、鞭で打って服従させ、ラヴィはそのショックで浜辺で失神し、一家の者の探索でやっと見つかる。一方で、リーに殺された娘のことで、祖母の召使いは深い怒りを胸に燃やしていた…。その晩…。
映画はおそろしい ホラー映画ベスト・オブ・ベスト DVD-BOX
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以下、致命的なネタばれです(黒沢清監督「回路」ネタばれも含みます)。
ダンディー少佐 / ワイルドバンチ / 駅伝
駅伝というのは、倒錯的な悦びを与える仕組みであるように思うのですよね。
まず、巧みに、個々のスピード・能力の問題は焦点化されないようになっている。結局は、チームの勝敗が重要であり、個別の区間における結果は、それほど重視されない。それは当然で、第1走者以外は、同時にスタートしていないわけですから、個々の区間のゴールにおける順位は、その個人の走りだけの問題にはならない、チームの問題に絶えずなるからです。すると、個人というものが、全体のチームの歯車となるわけですが、たとえばサッカーのような、複数の人間が多数の機能を分担するようなスポーツとも言いがたい。走る速さの早い人々が、チームと、それを象徴するたすきのために、同一の行為をただひたすら繰り返すわけです。なるほど、ひとつのチームに、さまざまな力を持った人間がいるわけですから、通常のマラソンよりも、ぬきつぬかれつが起こりやすい、とはいえそうです。レースを楽しむ、という意味では、マラソンよりも面白いのかもしれない。ただ、マラソンの肉体の限界への挑戦をみる、という時間であるのに対して、駅伝を見る、とは、いわば没個性的な仕組み(実際には、個々の走りは没個性ではないので、これは仕組み上、個々の限界への挑戦が見えづらくなる、という意味なのですが)を見ているのではないか。そこに私はどうも微妙なものを感じてしまいます。
いや、これはバイアスのかかった意見です。基本的に、皆でたすきをつないで、同じ行為を繰り返して、ひとつの仕事をなす、といった単純さを信じられないというか。ただ、倒錯的、というのは、ちょっと別の問題なのです。なんというか、実際に駅伝に期待されているのは、脱水症状でふらふらになって倒れそうになり、足を引っ張ってしまいながらも懸命にゴールする選手の出現(つまり、ドラマ)なのではないか、ということなのです。マラソンでも、もちろんそうしたドラマはありますが、しかしそれでも、勝者以上の脚光を浴びはしないでしょう。それは、端的に言えば敗者だからです。しかし、駅伝には、そうした明確な個人の敗者はいないのかもしれません。ぼろぼろでもたすきを繋げることができたなら、むしろぼろぼろであればあるほど、勝者以上に「勝者」になるのではないか。私は、それはスポーツとして、どこか転倒しているように感じているわけです。
という記事は3日の12:50、箱根駅伝の第10区をテレビで流しっぱなしにしながら書いています。
正月から見る映画は何だろう、ということで、親子そろってサム・ペキンパーの「ワイルドバンチ」と「ダンディー少佐」を見たのでした。もちろんDVDです。「ワイルドバンチ」はスクリーンで、ビデオで、何度も見直してきましたから、これで何度目かわからないのですが、「ダンディー少佐」はこれが初見でした。
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南北戦争のさなか、北軍の将校ながら、虐殺を繰り返すアパッチ征伐のため、南軍の捕虜まで編成した混成軍を作り、勝手に戦争を始めるダンディー少佐(チャールトン・ヘストン)は、ある意味戦争パラノイアだ、といえるでしょう。彼は、北軍内で問題を起こし、最前線からはずされて、南軍捕虜を収容する砦の責任者となっているわけです。部下からは、今度勝手な戦闘を起こしたら、更迭されると部下からも指摘されます。しかし、目の前にアパッチの蛮行がある。連れ去られた子供たちもいる。彼は、喜んで、戦闘へとまい進する。
以下、ネタばれです。
静かなる男 / 新年につき帰省中
新年につき、帰省中です。黙っていても、ご飯が出てくる状況はなかなかに危険です。胃が重くて仕方がありません。
DVDでジョン・フォードの「静かなる男」を。今年の映画初めです。
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青い大きなエプロン押したにのぞく赤いスカートが、アイルランドの緑にたなびき、モーリン・オハラが羊たちを連れて岩だらけの丘を行くと、幼いころを過ごした故郷の村に戻ってきたジョン・ウェインは、この世のものならぬものを見た、と強く感銘を受けるのでした。真っ赤な髪がたなびいてもいます。
光があり、風が吹き、豊かな運動に満ちている。女性たちが食いに引っ掛けた帽子を競い、競馬のクロスカントリーともいうべき競争に挑む村の男たちが、風雨に削れた丘を駆け抜けていくシーンの美しさ。ジョン・フォードの映画なのですよ。馬の運動もすばらしいのですけれど、風の中で揺れる帽子もまたすばらしい。つばの広い、黄色い、オハラのかぶる帽子は、むしろ、デートを許されたジョン・ウェインとオハラが、二人乗りの自転車で道を行く、そのシーンで巻き上がった風に帽子が揺れるシーンのほうが印象的です。
以下、ネタばれです。
キング・コング(2)
昨日の続きです。
しかし他方で、調和の取れた愛の物語、キング・コングとアンとドリストルの三角関係の映画としても、この映画は成立しています。そこにおいて、むしろ映画は、完全な調和を帯びてコントロールされるともいえます。それは、どこか遠く、ヒッチコックの「めまい」を想起させます。ジェームズ・スチュワートならぬキング・コングが、1度目はスカル・アイランドの自身が住む高所の岩場から、2度目はエンパイア・ステイと・ビルディングの屋上から、2度にわたり、愛する女性を失うという形で反復される三角関係の物語の構成から、練りに練られたものです。
- 作者: ジェームス・スチュアート
- 出版社/メーカー: ユニバーサル・ピクチャーズ・ジャパン
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以下、ネタばれです。
キング・コング(1)
ピーター・ジャクソンの「キング・コング」が、2005年度の最後を飾る作品です。見たのは、実はかなり前なのですが、なんというか、やっぱりこれがとりかな、と。期待に違わない、傑作だったのです。
この映画は3部構成でできています。舞台は1933年、大不況の只中。第1部は、映画監督カール・デナム(ジャック・ブラック)が、撮影途中の作品への出資を、映画会社から断られそうになるところから始まります。撮影が開始されながら、主演女優すらラッシュに現れず、ただひたすら動物の映像だけが撮影されている正体不明の映画は、台本すらろくにできていない状態です。カールの監督としての才能は大いに疑わしいのですが、一方で、彼は強い自負と、自身の作り出す映像への愛着を抱いており、まだできていないその映画を大傑作だと信じて、取替えのフィルムを奪い、機材を奪い、逃げられた主演女優の代わりに街中で偶然であった失業中の女優アン・ダロウ(ナオミ・ワッツ)と、金につられて台本を引き受けたもののあまり気乗りしていないドリスコル(エイドリアン・ブロディ)を、強引に船に乗せて、カールが手に入れた海図に従い、地上に残された未開の地、スカル・アイランド(髑髏島)を目指すのです。