オペレッタ狸御殿 / CAN「Future Days」

鈴木清順の「オペレッタ狸御殿」のことを書こうと思って、さてBGMを何にしよう、と思い、CANをセレクトしました。何となくあう気がするのは、私だけでしょうか?一番好きなのは20分くらいあるT4の「Bel Air」ですね。

Future Days

Future Days

では、「オペレッタ狸御殿」の話です。…ケロ、ケロ、ケロッピ(ほんと、可愛い、極楽ガエル)。

ネタばれです。

2度、狸御殿の狸たちが声を合わせて叫ぶ台詞「狸御殿はパラダイス!」は、ネタばれそのものなのだと思います。2度目に、その台詞が狸たちの口から放たれたときの楽しげな空気ではなく、凍り付いたような一瞬の沈黙を見ても、その台詞の持つ裏腹さを感じます。狸御殿は、死の世界なのです。実際、一歩裏山の霊山に入れば、死者=美空ひばりが光を纏って現れ、極楽ガエルが住む世界であり、そこに迷い込んだら、人は戻ってこられないのです。狸御殿では、死が反転し蘇り、人の姿をしながら人ではないものたちが、何をするでもなく日々ただただ楽しんで過ごしているのです。台詞の中で、「狸姫の誕生日以外は祝日」というのがありましたが、誕生日=死んだ日だからかもしれません。そして死んだ日に狸として蘇り、死者の国の世界の手前で、亡霊たちはにぎやかな日々を送っているのではないでしょうか。実際、狸姫がオダギリジョーと共に甦るまでの静寂の時間の流れ方。生者の世界にいるオダギリジョーが、狸=亡霊のチャン・ツィイーに恋をする、いわば「雨月物語」の世界なのだと思います。

ツィゴイネルワイゼン」「陽炎座」の鈴木清順は、まだ原田芳雄藤田敏八松田優作の身体がまずあって、その周囲に様々な死のイメージが折り重なっていき、生者たちも死にどんどんと惹かれていき、次第に生者が死者の世界へ抜き差しならぬ進入をしてしまうという映画だったと思うのですけれど、「オペレッタ狸御殿」の場合、最初から「陽炎座」のラストの書き割りの世界があっけなく全面に現れていて、ひたすら死の世界の遊技だけが繰り広げられていくように思います。最初から亡霊であるが故の弱々しさ、私はそこに、この映画の美しさを感じます。「オペレッタ狸御殿」を鈴木清順の最良の作品だと言うつもりはありません。ただ、この死の近さ、弱々しさ、そしてそれ故なのか、虚勢を張ったようなにぎやかさに、今、可能な美しさを感じるというだけです。オダギリジョーチャン・ツィイーの踊り=身体の弱さも、そこでは問題かもしれません。しかし「I'm in Heaven」と歌い踊るフレッド・アステアが遥か昔の記憶で、現在ではないならば、むしろこのオダギリジョーチャン・ツィイーの見せるある種のだらしなさこそ、今なのかもしれないのです。

映画の冒頭から、死者の世界に肉薄しすぎていること。それは、死の軽さとして現れる気がします。極楽ガエルが「ケロ、ケロ、ケロッピ」と泣くだけで、チャン・ツィイーの命が甦るのです(というよりも、最初から死んでいて、亡霊として現れただけではないか?ともいえるかもしれません)。生と死の壁はかなり薄いのではないでしょうか?

また、そう考えると、「オペレッタ狸御殿」が人々の殺し合う映画であること、しかし鈴木清順の映画らしく死こそが遊技化されていることに思い当たります(前作は、そういえば「ピストルオペラ」でした)。由紀さおり=びるぜん婆の死に方などは、素晴らしく見事です。重力をなくして空へと光の糸と共にのぼりながら、まったく天国のイメージからは遠く、改心どころか悪の美学を切々と歌って散っていくびるぜん婆は、無意味で無価値な死を鮮やかにやり抜いてみせるのでした。それも、薬師丸ひろ子演じる狸の腹鼓攻撃と、由紀さおりの、すべてを絡め取る光る糸攻撃では決着がつかず、意味不明の闘いのあと決着をつけるためにじゃんけんで互いの生き死にを決めるなどは、実に軽いのです。それは、この映画が繰り返す、死と生の無意味な運動です。おおむねは上下運動です。ハシゴの上へとのぼるオダギリジョーが、極楽ガエルをつかむこと、死の山から生の場である麓への降下も、この映画の単純にして魅力的な運動です。オダギリジョーの登場シーンは、生者の場、平地にある花咲く野原でした。そういえば、もう一つの高み、平幹二郎の城の上は、美の妄執につかれそれ以外のすべてを顧みない城主の空っぽの世界でした。彼のオダギリジョーへの殺意は、美の衰え=老いと死の問題だったわけです。

オペレッタ狸御殿」が感動的なのは、そうした臨界点に、この映画があるからだと思います。鈴木清順の最良の映画だ、などと言う気はありません。ただ、あまりに生と死が近づきすぎてしまった薄さが、狸の仮面一つで示されてしまうでたらめさは、やはり感動的なのです。実際、物語を構築しようにも、あまりに世界があやふやになってしまった、生と死のすぐに簡単に入れ替わる場所に、こうまで踏みとどまる(生きてみせる)映画監督は、あまりいない気がするのです。